あのね
よく認知症の状態にある方へ「嘘」をつくことの善し悪しが話題にあがることがある
なんか嘘をついてる介護職が悪いかのような言い方をされることがある
そう言えば、パーソンなんとかケアとかにも嘘をついてはいけないとか書いてあったなぁ
例えば日本には「嘘も方便」とか言う諺まであるし、いいんだか悪いんだかよくわからん事がよく起きる
でもそれは
嘘をつかなくてもいい関係や状況や状態か
嘘をつかなければいけない関係や状況や状態か
そもそも「嘘」に対しての個々人の前提がそれぞれにどうかによっても違ってくると思う
別な見方をすると
嘘は人間の本能のひとつの姿でもあると思う
つまりは自分や何かを守らなければならない環境や状況や状態に置かれた時
人間は防衛本能って奴を繰り出すんじゃないかと思うんだ
嘘をつくか、つかないかが問題ではないし
嘘そのものが問題でもないと思うんだ
嘘が嘘だったりってこともある
何故かは僕にもわからないけれど
少なくとも僕は両親や今まで出会ってきた大人たちに
「嘘をついてはいけない」って言われて自分を育んだことは間違いないし、それが僕の前提にあるのも自覚している
そもそもどうして嘘をついてはいけないのかにも疑問を持ったことがない
もっと言うと自分自身に嘘をついてることの方がたくさんあるし
嫌になって罪悪感を抱くことだって今までにもたくさんあったしある
それは「嘘をついてはいけません」という前提を信じているからなんだ
だから僕はそこを疑う所から始まると思うんだ
つまりは
嘘をつかなくてはいけないような若しくは嘘をつかなくてもいいような環境や状況を創っていることとそもそも本人が持っている本質的な前提や状態によって変化することに目を向けることだと思うんだ
嘘をつくとかつかないは、あくまでも結果であって手法や手立てに過ぎない
つまり嘘をつくか、つかないかの議論は
嘘をつかなくてもいい、又は嘘をつかなければいけない全ての環境や状況や状態と本人の本質的な前提や状態を紡ぎ出す関係に左右されると思うんだ
さらに認知症の場合は、嘘をつかれる又は嘘をつかれ続けているその状態が放置されることで、その本人が何かを感じるを感じたから起こっていることだと言うことをわからないで起きている事態が不可解だと思うんだ
その関係というのは、直接的、間接的にはまったく関係がなく本人の中で感じてしまうことなんだ
だから僕はいつも思うんだ
本人不在の議論はいつまでたっても平行線で終わると・・・
僕たちはいつも客観的主観で議論している
本人はいつも蚊帳の外って場合が多いね
本人というかひとりの人間の本質的なベースがいつもどこかに置き去りにされているんだ
僕はいつもそこを疑いながら居るようにしているよ
だからいつまで経っても解れないし、逆に解ろうというスタンスというか関係から抜け出せないんだ
それは仕方がないと思っている
僕が認知症の状態になっても多分僕を解ってくれる人は何処にもいなくて寂しい想いをすると思うんだ
でも解ってくれる人ではなくて、解ろうとしてくれる人がひとりでも居てさえくれれば、少しは心癒される光がみえるだろうなぁと想像が出来るし
ましてや相手が嘘をつかなくてもいいような自分で居られると思う
僕のスタンスはそこだし、僕自身の老後の課題かもしれないな
そして
一番悩ましいのは
自分自身に嘘をついていることがどれだけあるかだろうと思うんだ
どうだい?
解ろうとしてくれるかい?
昨日から今日にかけて「嘘」についてずっと考えていたら頭が痛くなったよ(笑)