認知症
自然界の理屈で言えば
ごくごく自然なことである
限られた若しくは今ある有する能力または、今この瞬間変化する能力を持って応じている姿でしかない
認知症を定義し使うことで、その可能性が限定され人類は柔軟性を失うことになる
僕が認知症という言葉を避けようする最大の理由がそこにある
単純に言葉のニュアンスや感じ方や偏見ではない
しかし、究極、この理論を偏見と呼ぶのかもしれない
だから僕はあえて自分のことを「認知症バカ」と呼んでいる
介護の世界から丁寧に観てゆくと、ずっとミクロな繋ぎ方の変化からの応答を捉えて、僕らや、あらゆる環境との関係性を見極めながら支え方を考えるということを追求してきた
そこはそこで大事なことだが
ミクロ的な支援を心地よいものとするには、やはりマクロ的な生活や社会という大きな器の仕組みとしての支えも大事
つまり、認知症を追求すればするほど、認知症から遠ざかってゆく実感に至る
認知症を知れば知るほど、知らないことの方が知っていることを超えてゆく
認知症を知ろうとすればするほど、認知症を感じない本来の姿が際立つ
人類の応えは、そこにあると感じる
Naoto