僕は、昭和63年、今から30年ほど前にこの業界で仕事をするようになりましたが、その当時は、大きな建物に認知症(当時は痴呆症)の状態にある方々を入所(当時は措置で行政処分)させられていました。
若くして若しくは高齢となって、認知症の状態になってしまった方々が、電子ロックで施錠され、常に監視カメラで管理された施設で生活されていました。
居室は4人部屋、当時社会問題となっていた“徘徊”に対応すべく、回廊式の廊下、立ち上がり歩き疲れて転倒、その転倒のために身体拘束、排泄は布オムツでオムツ交換の時間までそのまま。汚れたオムツのままでいると、人間本能で気持ち悪いと感じます。その気持ち悪さから逃れようと、自力でオムツを外すと、不潔行為だの、オムツ外し行為だのとレッテルを貼りました。手についたウンコをどう処理していいかわからないの、壁やカーテン、衣類などそこら中で拭うと、今度は弄便行為と名付け問題行動とされました。入浴は、男性女性に関係なく、人間を洗う感じで芋洗状態で次から次へと流れ作業でした。でも、決してその当時の寮母さんや寮父さんたちに悪気があったわけではありません。その当時も一緒懸命にCAREとケアを考えていたのは事実です。そんな時代が、ついそこの時代まで行われていたのです。もしかしたら今でも行われているかもしれません。
宅老所やグループホームの取り組みが、認知症と人に効果があると紹介されるようになり、認知症と人を取り巻く環境がガラリと変わっていきました。その時代からのスティグマなのか、今でもその前提は変わらず、“注文を間違える料理店”と命名すると、その言葉だけが一人歩きし、当事者からは間違えようと思って間違えてんじゃないとか、“間違える”という文言の良し悪しに焦点が当たり、本質が伝わっていない気がするには僕だけでしょうか?
例えどのような状態であっても間違えてもいいじゃないですかという寛容な社会を目指そうとやってるだけで、認知症の状態にある方々を晒し者にしているわけじゃないですよ。確かに、誰一人として間違えようなんて思わないわけで、彼らは一所懸命に与えられた仕事をしていました。そのサポート役として、黒子としてサポートスタッフが支援する関係が大切であり、さらに有する能力に応じて彼らの力が発揮されるように、お客様とのコミュニケーションの中で自然な人間関係や頼まれた事への修整ができて、彼らが間違いをすることはほとんどありませんでした。どちらかというと、サポート側がてんやわんやになって、僕なんかは、別なテーブルに料理出しの指示を出し、間違いをしてしまったのは間違いありません。
人は、認知症であろうがなかろうが、間違いをします。僕なんか間違いだらけの人生ですよ(笑)それでも寛容な人たちに支えられて生きていることを考えると、その間違いを、認知症だからとか、発達障害だからとか、責めるのではなくて、すでにわかっている理解の元に、共に暮らす寛容な社会を目指そうやって、言っているだけです。厚生労働省でやることに意義があるじゃないですか。誰かがどこかで、自分にはない発想とアイデアで、社会に影響を及ぼすような取り組みをしたことに対して、仲間同志尊重こそあれ、批判や批評の対象ではないですよ。お互いのそれぞれの趣旨や目的を理解し逢い、共に社会を前に進めようとしているだけだと僕は、その現場に居て思いました。
今回の注文を間違える料理店にお手伝いとして参加させて頂きましたが、彼らの有する能力が発揮されるようにサポートされ、しっかりと仕事をこなし、お給料をいただいている姿を見られて、これもひとつの在り方なのだと、自分の枠がまた広がりました。
認知症?上等じゃねぇ〜か!
注文を間違える?だからなにか?
くらいが丁度いい^ ^
ありがとうございました。
Nao
未承認 2024.08.27-06:18 このコメントを編集する
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