ずっと『認知機能に変化』のある方々の支援に携わってきました。
人の強さと弱さをありのままに実感してきましたし、していますし、これからもしてゆくでしょう。ですからどんな姿もありで、その姿同士が支え合っているに過ぎないと感じています。本来、私たちが目指しているところはそこにあるのではと、日々自問自答しています。
社会の仕組み創りは、個々の在り方の集積により、柔軟に強さも弱さも受け入れられる事のできる社会の実現だとすると、『認知機能の変化』という一点だけのことではないと思います。あくまでも『認知機能の変化』は切り口であり、『グループホーム』もひとつの仕組みというか道具に過ぎません。多分、私たちは、その仕組みの有する機能の中で、最大限の敬意と尊厳の元に、人の命と向き合うことが使命なのだろうと思います。
以前、こんな方がいらっしゃいました。
Aさんという方が、右手に箒を持ち、左手にちりとりを持って室内の掃き掃除をしていました。その方と僕との関係が途切れない関係の空間(感覚空間)の中で、互いに繋がり抱きながら掃除をしています。しかし、時に別な方との空間や関係を優先しなくてはいけない事態が起きた場合、私の中では優先順位が働き、別なBさんという支援のベクトルへと動くとします。その間、私はAさんから離れます。少しの時間だと思うが、再びAさんをみると、左手に箒を持ち、右手にちりとりを持ち、そのちりとりで掃除をしているという事態になります。
例えばこんな具合に、Aさんの中で起こっている事の事実をしっかりと見極め、その方の認知機能が主体的且つ継続的に働くように支援してゆくことと、やがて、Aさんの『認知機能の変化』に伴い、全てが行えない状態になってゆく。そのプロセス全体を支援してゆくことが、私たちが行っている緩和ケアであり、まさにこの場がある意味ホスピスなのです。私たちはそこの追求にかけてきましたし、またこれからもそこを追求していこうと思うと共に、そこがわたしたちの使命だと思います。その中で起こりうる困難なことは、多種多様に共同していくしかありません。自分たちの特徴をお互いに出し合いながら、折り合いをつけていくことなのでしょう。
|