唐突ですが、皆さんはご自分ひとりで生きている、若しくは生きてきたと胸を張って言える方はいらっしゃるでしょうか?多分いないでしょう。私達の今ある姿、つまり「存在」は、この世に生を受け、いままで生きてきた存在があり、その生き様の上に、今ある生きている姿があるのだと思います。そして、その存在が、あらゆる関係に影響するという関係的な存在として生きている姿があり、生かされているのは、皆さんもご存知であると思います。つまり、他者(相手)から与えられ、今、生きている自分の存在があると謙虚に思われるでしょう。「人の(自分の)存在は他者から与えられるということ」なんですね。そんな関係存在が、時に「人間関係」どいう言葉で言い表されるのでしょう。
私達の仕事は、いつもその関係と関係の存在の上に成り立っているのです。更に、認知症という障害を待つことにより、身体的にも、心理・社会的にも、環境的にも不自由と感じることが多くなってくるのです。すると、最期に求めるものは、感性であり、感覚であり、気配なんです。そんな障害を持った方々は、自分にとって、他者から与えられる影響というものは絶大なものになるのです。私達の存在そのものが他者に影響を与えるのです。その方にとって善い影響を与えるか、悪い影響を与えるか、どちらにせよ心理的な影響を与えるのは間違いないのです。それ故に、私達専門職と呼ばれる者にとって、自分の存在がどのように周囲に影響を及ぼしているかを、自己評価できる人材が必要となってくるのです。自分をみつめ、自分に変えるところがあれば謙虚に受け止め、変えようと努力する姿があるかどうかで、その価値は決まると言っても過言ではありません。私がアウルで人材を求めるとき、一番に考えるのは、自分という存在をしっかりと見つめることができる人かどうか、自分の弱さをしっかりと認めて、変わるうと努力する姿や意識があるかどうかです。完璧な人材などこの世には存在しませんし、求めてもいません。ただ、その存在があるべき姿を求めて生きているかどうかなのです。私には、人を裁くことなんかできません。人の上に人はいないのですから。それでも、今こうしている問にも、戦争で人が人を殺し、親が子供を虐待し、子供が親を殺している現実があるのです。今こうしている間にも、手足を縛られ、拘束され、虐待を受けている老人がいるのです。私は、ただただ、愛を与え、愛情を注ぎ続け、人間として当たり前に過ごすことができる社会にしたい、それだけです。理想と現実のギャップが「苦しみ」なら、その「苦しみ」を小さくしたい。その為に必要なことは、私達の生きる姿として、表現し、伝えていきたい。ただただそれだけです。どうか、これからもその姿をあたたかく支えて頂ければ幸いです。
合掌 |