誰かが信じる、信じないの選択は別として、わたしは魂のレベルで会話というか感覚というか、そんなのを大事にして、今を生きています。わたしの信じるままに生きたいというか、わたしの人生、わたしという人間そのものがプロセスである事を信じているんですね。わたしの人生/生命そのものが大切な核(コア)であり、そこから物事を考え、言葉にし、行動を起こしています。すると、わたしの存在そのものが「愛」であると気づかされます。そう考えると同時に、わたしの周りにいる人たちもまた「愛」の存在であることに気づかされます。
わたしには愛があると想像できますが、「愛すること」を経験するには、その愛を誰かに与えなくてはいけないと。そのことで、ただ「もつ」という事が「存在する」に変化していくものと。つまり、誰かがそこに意味を与えない限り、どんなことにも何の意味もないという事になってしまう。わたしたちはわたしたちがすべきことすればいいのであって、隣の人のことは心配しなくてもいい。さもないと、ともすれば隣の人が何かをするのを待つ事になってしまう。隣の人はそのまた隣に人を待つでしょう。そして隣の人も同じになってしまうという意味です。それでは何も起こらないし、何も始まらないと思います。
根本的な変化こそ、いま世界を救うために大切な思考であり、言葉であり、行動なのだと思います。わたしが伝えている事、与えている事、経験している事の本質がそこに、ここに、あそこに在るのだと思います。だから「正しい」とか「間違い」とかの基準がなくなってきます。もし、わたしの中で「正しい」「間違い」の思考や感情が湧き出るとすれば、それはわたしが何をするつもりなのかをもとにした相対的な判断でしかない訳です。
すべてはわたしたちが何を選ぶのか、何を望むのかによって全てが決まるものです。わたしたちは、誰かに呼吸をしなさいと言われて呼吸をしてる訳じゃないし、呼吸をしようと決意して呼吸をしてる訳じゃない。わたしたちが何かを意識する前に、わたしたちが何かを選択する前に「仕えて」いることがあるはずです。そのことを人間は「あたりまえ」と表現して、自分で考える事をしようとしなくなってしまったと思うんです。そのことを今、わたしはお年寄りの魂から学ばさせていただいております。学ぶというより、大切な事を思い出させていただいています。
ありがとうございました。
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