「認知症高齢者」とは言わなくなった。講義や講演の資料にも「認知症高齢者」とか「認知症ケア」はなくなった。いつの頃からだろうと考えてもなかなか思い出せない。ある日、指導者仲間からひとつだけ聞いてもいいかと聞かれた。「宮崎さんは「認知症の人」とは言わないって言ってますよね。でも、家族とか地域とか、みんな「認知症」って使わないとわからないんですよ。等など・・・」自分でも何を聞かれていたかを整理して書く事ができないことにもどかしさを感じている(自分ではわかっている)。
それでも「認知症の人」「認知症高齢者」と呼ばれる人はいないと言うのが主張である。「人が認知症で困っている」とか「人が認知症で不自由を感じている」とか「人が認知症の状態・病態にある」であればわかる。言いたいのは、「認知症」の前に「人」だろうである。しかし、今の世の中は「人」の前に「認知症」がくっついて、「認知症」から問題を追究していることに疑問を感じているからである。専門職が「認知症の人」と簡単に言葉にして言ってのけてしまう事に疑問を感じるようになったのである。これは、私自身の変化である。何も考えずに、簡単に見えている、若しくは見えていない(妄想)、つまり「認知症」から入り、「人」を見ている姿では、「認知症の人」「認知症高齢者」となってしまう。言葉は最終的な手段である。そして意味や想いが加わる。視点が認識を創造し、その認識が経験を創造するのである。自分で考えることなく、誰かが言っているからとか、「認知症高齢者」「認知症ケア」が一般的な言葉だからでは、表面上若しくは上辺だけの捉え方としか感じないからである。彼らは私達と同じ姿である。そして、純粋に「ヒトとして、ひととして、人として」生命活動をしているのである。病態であるのは認める。しかし、その病態の中で懸命に「人として」生きようとしているだけである。それを、一般的に表現しているからとか、みんなが使っているからとか、教科書やテキストに書いてあるからとか、行政が使っているからとか、偉い先生が使っているからとか、誰かのせいでは、何とも貧困である。そこを、もう一歩も二歩も突っ込んで追求したいものである。私の目指すところは、「認知症」という言葉自体をなくすことである。「認知症」だけではない、「癌」も、「胃潰瘍」も、「うつ」も、「エイズ」も、この世の中にある病気と呼ばれている全ての言葉と表現をなくしたい。そもそも、私達の思考や意識や感情の中から、その病態自体を手放すことができたら素晴らしいことだと思う。
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