もうかれこれ10年以上も前に遡るが、ある異業種の集まりに参加した。
ある会社の社長がキリマンジャロ周辺を仕事に行った時の話を聴いた。キリマンジャロの麓で、ある部族の長と話をした時の話だった。通訳を3人通さなければ通じない部族だった。社長が1人目の通訳に尋ねた。「ここの人たちはお年寄りを敬ってますね」日本語から英語に翻訳し、さらに英語からフランス語に翻訳し、フランス語から現地に人の言葉に翻訳した。すると部族の長が一言言った。それをフランス語にし、英語にし、日本語にして返ってきた返事が「はい」さらに社長は尋ねた。「何か部族のしきたりとか、言い伝えなんかあるんですか」社長は何か現地の人ならではの神聖なるものがあるのかと期待した。すると通訳を通して部族の長は応えた。「なんもない。あたりまえだ」と翻訳されて返って来た。
人類はなぜに根拠となるものに依存しているか。人類の思考はあたりまえの事をさらに難しくしているのではないか。理念や理想があると安心するからか。答えがあると安心するからか。その根底にあるものは不安であることを隠したいためか。あるがままに本来の姿であることである。
すでにこの世界には自然の秩序がある。人類はあらゆる思考をめぐらし、知識と技術を用いて、今の世界を創造している。「認知症」という言葉が存在し、そこからくる視点と認識と経験は、先進国にしかない。発展途上国と言われている国々ではどうなのだろう。「先進国」と「発展途上国」。こんな言葉があることすら否定する。この国はいったいどこに向かっているのか。この世界はいったいどこに向かっているのか。
「認知症」を解明し、根拠を求めなければ支援できないのだろうか。「認知症」という言葉とその意味を明確にしたり、発見することが果たして何の役に立つのだろうか。「認知症」という言葉に惑わされ不安に思っている人類の方が問題ではないだろか。そこを解決すると「認知症」そのものが消滅するのではないか。そこまで人類の意識が来てはじめて、「認知症」が治ったと言えるだろう。「認知症」は「認知症」と診断された人たちだけの病気ではないということを意識した時、その病気は人類が創り出したものと視点を置き意識した時、視点が変わり、その視点が認識を変え、その認識が経験を変えるだろうことを知っている。思考は現実になるのである。キリマンジャロの麓に在る部族には、グループホームなどない。特養や老健やデイサービスなどない。在るのは「完璧な秩序(自然)の中にいる人」だけである。
つまり、人類の不安が問題なのであって、「認知症」そのものは問題ではないと気づくことである。そこに気づくと世界は変わるだろう。そこに気づくと世界で起こっている全ての問題が変わるだろう。一日も早く互いが互いの痛みを分かち合い、支え合える世界になることを願い行動することを誓う。 |