伊達のアウルがオープンして間もない頃、夫婦で入居されていた方である。奥様が何やら探している。大切なものらしい。スタッフ総出で捜索を開始。するとベッドの壁側に挟み込まれるようにそれはあった。新聞紙に包まれ、大切に、大切にされているものなのだろう。何重にも包まれていた。彼女の顔が一瞬に安心した表情に変わった。
その大切なものはいったいなんだろうと、幾重にも包まれた新聞紙をはがしていくと、一冊の本であった。題名をみると、何だか小難しい物理か何かの題名が書いてあった。本の題名はわからないが、とにかく小難しい題名だったことは間違いない。
なぜこの本が大切なものなのだろうと感じた。一般的には探しているものが見つかったら、「良かった」で終わる。しかし私たちはそこで終わらせるのには謎だらけだった。
彼女に聞いてみた。すると彼女は、「だってこの本は私の弟が書いた本なの」と。彼女の弟は大学の先生(教授)だった。私たちはそこまでアセスメントできていなかった。アセスメントできていなかったことを反省するのではなく、こうして彼女と生活している中で、生きたアセスメントが出来ることに喜びを感じる。
見えないこと、感じないこと、解らないこと、いろんなことが私たち人間にはある。だから共にそこに在ることを臨む。彼女と共に生活しているからこそわかることの方がなんと多いことか。過去のアセスメントに執着し拘るのもわからないではないが、私たちは生きているのである。そして変化するのである。適応するのである。中には適応しないという選択もあるだろう。あらゆることと私たちは臨むのである。
大切なもの、大切なことの意味もそれぞれでありその時々によっても違う。柔軟に共に在ること応援することのできる私たちであることを選ぶ。ツールに惑わされることなく、そのことを選ぶ。誰かの名誉や名声や地位や立場のためのツールじゃない。私たち自身がアセスメントツールとなろう!
多分彼女は今、天国で弟さんと一緒に本を大切に読んでいることだろう。
ありがとうございました。
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