本年初旬、Kさんの青春時代の一コマを紹介した。
北海道ゆかりの歌人、石川啄木がそうであったように
Kさんも夕張市の母校、丁未(ていみ)小学校の代用教員
であった。
啄木は、郷里 岩手県渋民村、Kさんは、炭都夕張で
青春の一時期を多くの瞳に囲まれてすごした。
夕張高等女学校に学び大学への進学も夢見ていたころ、
母校の丁未小学校の校長先生から、熱望され奉職。
小学校1年生から3年生の担任を務めたという。
お話をうかがった後、丁未(ていみ)とはふしぎな
文字だ、どんな意味なんだろうと漠然とした疑問が
湧いてきた。
Kさんの読書好きは今も変わらず続いている。
先般、石川 啄木の「雲は天才である」をお貸しした。
すると啄木は日記に「明治四十年丁未日誌より・・」
と教員当時の多忙な様子を書き記している。
明治40年は、西暦1907年。
そうだ丁未とは干支(えと)で(ひのとひつじ)と
気づく。
丁未小学校の開校は、明治41年(1908年)前年に
校名を決め建設にかかったのであろう。
更に啄木が書いた丁未歳とは、西暦を60で割り、
余りが47となる年が丁未歳になる。
ちなみに明治40年は、 1907÷60=31 余り 47
直近では、2027年が丁未歳になる。
Kさんの学び舎は、こんな意味をもっていたのだ。
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