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【本質】

2018年12月05日 | 未分類

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例えば
僕が人前で
お話をするとします

僕はユーモアを交え
少し話を脱線しながら
お話をします

それは
聴き手が興味を持ち
学習意欲を高め
自ら学び
育もうとするためです

聞いた方からは
いい講義だと評価されます

しかし一方では
ユーモアや脱線話は必要なく
シラバスや
カリキュラムや
教科書どおりに
則ってやらないといけない

なぜなら
受講生にとって
不利益になるからだと
評価されます

皆さんは、どう思われますか?

これは
講義の良し悪しを
問うているわけではありません

僕は
どちらの主張も
正解だと思います

なぜなら
どちらも
聴き手の利益や
聴き手のためを
想ってのことですから

前者は
楽しく
自ら高め
育むようにと
受講生のことを考えてます

後者も
大切なことや内容を
ルールに則り
正確に伝えようと
受講生の利益を考えています

僕はね
こう考えるようになってから
どちらもありだなと
冷静に
思えるようになりました

つまり
その対象のことを
想ってのことと考えると
やっていること
伝えていることの
本質は同じなのです

あとはそれぞれが
自分の中で
どう折り合いを
つけてゆくのかです

こんなことって
形を変え
品を変え
状況を変え
僕たちの周りに
たくさん起きている
と思うし
本質から離れた
議論になって
しまいがちです

人は
それぞれの
立場や能力
考え方や育み方
この世に生を受けてから
どういう人間関係で
生きてきたか
その経験によっても
まったく異なった
捉え方や意見を
持つものです

つまり
誰一人として
同じ考え
同じ言動
同じ容姿
同じ人間はいない
ということです

そこの折り合いを
惑わせる幾つかの
オプションが加わります

相手の言い方
相手の言葉
相手の表情
相手の態度
相手の口調

そんな
バーバルや
ノンバーバルな
フィルターを通して
相手の評価が始まります

そこ(評価)が前提になると
せっかく
本質的な議論をしようとしても
つまり利用者の幸せを
考えようとしても
まったく別な感情との
戦いになり
本質がずれてゆくのです

そこを前提とした
お互いの方法論の議論は
不毛の議論となり
不快な状況と状態を
創り出します

お互いに
相手(利用者)のことを
想っての意見と考えると
一呼吸置いた
捉え方になり
相手の考え方も一理あるなと
考えることはできませんか?

お互いに
目の前の
お爺さんや
お婆さんのことを
一所懸命に考えているのに
嘘偽りはないのですから

ここが
今のこの業界が
敬遠される
本質です

3Kとか言われてますが
これはダミーに過ぎません

本質は別なところにあると
僕は考えています

さぁ、みなさん
どう考え行動しましょうか?

僕たちは
何にために
この仕事を選んだのですか?

今一度
自分の心に
問いかけてみませんか?

Naoto

12:48 | 記事 nao [コメント:0]

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