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【”の“から”と“へのススメ】

2019年03月08日 | 未分類

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僕は認知症の状態ではありません。ですから、認知症の状態の方の気持ちは解りません。でも、そんな僕にでもやれることがひとつだけありました。それは、解ろうとすることでした。でも、いつまで経っても解らないという現実も感じています。世の中には、”認知症“と”人“を解ろうとするための知識や技術と、それを支えている人たちの心で溢れています。そのどれもが正解ですし、本当のことなのかもしれません。しかし正直なところ、僕にも何が本当のことなのかは解りません。解っているのは、その状態にある人にだけで、それこそ一人称の感性の中に答えがあるのだと思います。つまりは、一人ひとり違うということです。それは、僕と皆さんが違うのと同じように、この地球上に空気があるのと同じように、ごくごく当たり前のこととしてそこに存在しているだけです。ですから、その人のことは、その人にしか解らないのです。あの人のことは、あの人にしか解らないのです。ましてや、混沌とした世の中ですから、自分自身のことですら解らなくなってしまう時代です。”痴呆“から”認知症“へ呼称が変わっても、今度は“認知症の人”と一括りにしたり、されたりする文化は、今もなお続いていると感じています。未だ、“人”の前に“認知症”を置いて、認知症というフィルターを通して“認知症の人”と言っていること自体に、僕は違和感を感じています。よく研修会で「もしあなたが認知症になったら」という設問を投げかけて考える機会があります。僕であれば、真っ先に“認知症の人”という呼称、呼び方を止めましょうと、異論を唱えますし、たとえひとりになっても、訴え続けるでしょう。“僕の前に認知症はなく、残念なことですが、僕の後に認知症があるだけです”と言い続けるでしょう。何度も申し上げますが、僕は、“認知症”の前に”宮崎直人“です。ただ、「僕には認知機能が低下してゆく原因疾患を持ってしまい、僕が一番困るのは日常の生活に支障をきたしてしまうという状態と、そのことに対するストレスと不安が生じてしまうという状態なんです」と、言えたら言うでしょう。この世界は、少数派を排除しようとする傾向があります。そこに立ち向かう気は毛頭ありませんが、介護職のみならず、家族や支援者、医療関係者、研究者、さらに当事者までもが、自分たちのことを“認知症の人”と表現していること自体、違和感を感じてしまいます。ですから、原因疾患に伴って、僕の認知機能の低下が進み、あまりうまく言葉が発せられなくなった時に、私のことを“認知症の人”と表現したり、みたりする人が、僕に入浴を進めてきたとしたら、きっと拒むでしょう。そして、その人は僕に“入浴拒否”とレッテルやスティグマを貼り付けるのです。そして僕が”家に帰りたい“と言っただけで、“帰宅願望”とか“帰宅欲求”などと問題視されてしまいます。残念ながら、まだまだそのスティグマは存在しているのは事実です。“認知症”と“人”のCAREとケアとは、一人ひとり違うものですし、彼らとの体験的な関わりを通じて感じていくしかないと感じています。申し訳ないですが、都合のいい時だけ“人として”を主張し、都合が悪くなると“認知症”を前面に出してくるのは、何か本質が歪んでいるように思いますし、矛盾しています。歪みも矛盾も全て受け入れて、これからのことを考えていくことができればと思います。何かの取り組みに異論を唱えるのも自由ですし、色んな考え方があって当然ですし、基本的に僕は全てを尊重します。ですが、その前に”認知症の人“と言っている事自体に偏見を感じない人や社会の感性と感覚に、目や意識を向けた方がいいのではないかと、自省も含めて世に問いたい願いでもあります。ですから、基本、当たり前に“認知症の人”と一括りにする文化ではなくて、“認知症”と“人”を別々に捉え考えてゆく文化に変えていかなくてはいけないし、是非当事者からも発信して欲しいとの願いでもあります。
“の”から“と”へのススメです。これが、ここ数日間に僕の中で起きた心境であり、これまでもずっと伝えてきたことですし、これからも変わらず伝えていく大切なことです。

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