おととい
ある法人の研修会で語ってきた
これまでとは違い
今私が伝えたいこと
という自分軸の内容
約2時間 質問も合わせると2時間半
皆さん真剣な眼差し
自分の日々の実践の中で
疑問に思っていることや
悩んでいることに対して
何かヒントや解決の糸口を見つけたいという眼差しに見えた
普段僕は質問や問答は苦手で避けてきたが
この日はメニューに入れて臨んでみたが
時間を超過してまで
皆さんから問いをいただいた
3つほどあったが
入浴に関しての質問がメジャーなので取り上げようと思う
この話は結構あるあるな問いだ
問い
『入浴を勧めても入らない』何か良い手立てはないか?
私の答は
『ない』
そもそも『入らない』という言葉の裏には『入れよう』とか『入るべき』という、自分の中にはすでに法律が存在し、その自分の中にあるルールに違反している人という隠された意識がそこに在り判断しているというのが大前提にあるということである。その前提がある以上は、こうした課題は後を断つことはない。僕が実践を通して感じたことは、お風呂に入ること自体、生まれたての状態になるということ。もし自分の意思に反して福を脱がされようものなら、そこは抵抗するのは当たり前。では本来私たちが入浴する時の状態は、安心であったり、安堵感であったり、気分や気持ち、心が緩やかな状態であったり、入浴することでそれを得ようとしたりするものである。使命感で入浴する人はほとんどいないのではないだろうか。ということは、もし私が入浴を勧めるということは、少なくとも私との関係が良好でなくてはいけないということ。つまり入浴云々の前に、良好な人間関係があるか若しくは、目指しているかということ。更には、自分以外の人との関係も良好に送れるような日常生活があるか、もっと言うならば、そもそも孤立した状況であったり、収容され猜疑心満載の環境や関わりになってはいないか、そもそもその環境にいることに喜びや幸福感を味わえるようなことを目指しているか、という事である。ほとんどの専門職の多くは、そこを目指してはいないかどころか、「入浴させる」ことに必死である。つまりは、根本的な大前提が間違っているということに、早く気づき修正し、良好な人間関係を築けるような努力をしたほうが、より効果的であると考える。具体的に言えば、普段の振る舞いや、表情、全ての所作がものを言う。この人なら信頼できる人、ここは信頼できる場所、私は満たされている、私は愛されているという安堵感や安心感があって初めて、裸になれるというもの。ただしここで言う人とは、なにも専門職に限った人ではないことを付け加えておく。さて、どれだけに時間がかかるかもしれないが、自分のコミュニケーション能力を日々試されるお仕事。そもそもの人が心地よく生活するということをマジに考えてみませんか?
と言うようなことを身振り手振りでお伝えお答えしました。
皆さんも問題をすり替えてしまってはいませんか?