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【CAREの感性(一つの考察)】

2019年06月18日 | 未分類

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「ホームの利用者さんが,ご近所のおばさんに連れられて帰ってきました」と報告があった。僕は、3つの意味で良かったと思う。1つは、利用者さんが無事だったこと。もう1つは、地域の有難みがわかったということ。さらにもう1つは、CAREの感性をどう磨いてゆくかを考えるいい機会であるということ。誰が悪いわけでもなんでもない。外に行くことは何ら問題ではない。むしろ自由でいい。考えるいい機会をいただいている。ただ大事なことは,僕らが気づいていることだと思う。つまりCAREの感性。気がついているだけでいい。状況にもよりますが、必要に応じて声をかけるといい。では,気がついているためにどうするか?このことで監視や管理の名のもとの見守りになると、本末転倒。それでは,環境の死角を多くした意味がまったく生かされていない。一度アウルをご覧いただいた方は解ると思いますが、アウルの全ての介護保険事業所(グループホーム・デイ・小規模多機能)に共通しているのは,それぞれに干渉されないで済むような設計,環境,佇まいになっている。この環境は,知らんうちに自らのCAREの感性も磨いてくれるようになっている。知らんうちに気がついたら、最強なCARE感性が身についていることになっている。本人は普通なことだから、凄いとは感じていない。僕からみたら凄いことである。さらに大事なのは、他のスタッフにも気にかけることだ。今何をしているのか、そのことで自分は今どう動き、どこの視界を保つのかを気にかけて行っているか。同時に自分の立ち位置は?と考えられるかが大事。それは常に動くから容易なことではない。そもそも全部が視覚で捉えられる環境が個々の感性を鈍らせる。アウルは、そこを乗り越えチームを創ってきた。新規事業所の通る道。自分の意識と立ち位置と、その位置で関心をどこに置くかが問われる。30年関わってきたが、そこは敏感になる。それぞれが関心を寄せ合うチームになると最強である。彼らの安心安全は、保証されるだろう。それは一朝一夕にはいかない。日々の時と失敗の繰り返しから、どう捉えるかが問われる。日々生活暮らしの実践の積み重ね、時を貯めるから感じるものだろう。

Nao

07:05 | 記事 nao [コメント:0]