昨日から仕事で東京に来ていました。今日は帰るだけなので、心の師であるMさんの美術館に立ち寄ってきました。Mさんの美術館は、行く度に感性に響く処です。
Mさんは、書を書くたびに思ったそうです。
「書には、その人間のすべてが出てしまう。知性、教養など、その日の体調も、すべてが・・・」
Careとまったく同じだと感じました。
ぼくは昭和63年7月、26歳の時にこの業界に寮父として入りました。今年で56歳になりますから、もうかれこれ30年になります。
これは初めて語ることです。
この職に就いて以来、認知症(当時は痴呆症と表現されていた)のCareのことはまったく解らない時代に、ぼくは、お爺さんとお婆さんと向き合うたびに自分の非力さを感じて、自分を責める日々が続き苦しくて苦しくてたまらなくなりました。
その苦しみは、13年間続きました。この国にグループホームが定着するまで、そこでのCareの在り方を創り出す過程を経験しましたが、ぼく自身は崩壊寸前でした。
ある日ぼくは悟りました。
とても気づくのが遅いですが、ぼくは関わり手としては向いていないと悟り、やめることにしました。その代わりに自分に出来ることはないものかと模索し続け、2つ答えにたどり着いたのです。
一つは、お爺さんやお婆さんたちが幸せに過ごすことが出来るような居場所の創り手になること、でした。それは不思議と絶対に出来るという、まったく確信のない、根拠のないもので、今振り返っても自信を持ってこれだ!と言えるものはない日々でしたが、ぼくの想いを形にしようと、沢山の方々の力が一気に結集し、それは出来上がりました。
それで出来たのがアウルです。
もう一つは、今までのCareの経験を語ることでした。
ですから、ぼくが認知症について語るそのほとんどは、その時の苦しみの連続で感じたことばかりの経験です。ぼくは、ぼく自身の経験のすべてを反面教師として、ぼくと同じように苦しみの中に居る人たちのために、生かそうと心に決めました。
その経験のほとんどは失敗ばかりでした。うまくいったと感じることはほとんどなく、もしうまくいった話だと聞き手が感じたとすれば、それは、話し手が自分の過去を美化する人間特有の記憶の特性が働いたものであって、それらが生かされて脚色された話です。
今、ぼくの語り手としての活動の原点はそこにあります。なので、話し手の私が凄いのではなくて、アウルで日々お爺さんお婆さんと向き合っているスタッフが、もの凄く凄い人たちなのです。
ですから、ぼくが一番尊敬する人は誰ですかと尋ねられたら、迷わずアウルに居るすべてのスタッフたちですと答えます。それだけ凄い人たちなのです。
多分、その当時のぼくと同じように自分を責めているスタッフがいるかもしれません。でも、お互いに支え合うチーム創りで、その多くは解消されると、ぼくは経験から感じるので、その為にぼくにできることを最大限しています。
あとは、個々人の感じ方ですから、個々人の感じる前提まで、ぼくが直接変えることはできませんので、ただ、自分自身で自分自身の前提を見つめることのできる環境を用意することはできます。つまり、ぼくの仕事は、彼らが豊かに生活できるようにあらゆる環境を整えることなのです。
そしてそれは、アウルという枠を超えて拡がっていけば幸いです。これもぼくの仕事になりました。
ですから、ぼくの仕事はひとつ増え、以下の3つになりました。
1.アウルやアウル周辺に居る人たちが幸せに暮らせるような環境を整えること
2.語り部であること
3.アウルの枠を超えたアクションに繋げること
Naoto