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『徘徊』

2018年03月27日 | 未分類

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未来に「大丈夫」が来ると知っているが、今の不安は消えることはない。不安は不安として受け入れるしかないと自分に言い聞かせる。それは、その不安をとことん味わうと言うよりも、その不安を認め終わりにするということで、次に進めるような気にすることである。つまり、そこにいつまでも、留まっていてはいけないということである。

「徘徊」の言葉がとりだたされているようだが、僕がグループホームに関わるようになってからですから、かれこれ20年も前からすでに使っていない。研修会や講義や、何か人に伝える場合に、あえて「徘徊」という言葉を使うが、単純にこの言葉は実際に見えている姿だけを表している言葉であることがひとつ、そもそも本人の本当の気持ちや言葉や行為を表している言葉ではないという意味のふたつに分けて説明のために使っている。つまりは、状態像の捉え方の前提が変わらない限り、単純な言葉の入れ替えだけの議論になるだろう。人間は、一般の人、専門職、老若男女にかかわらず、人にくっつく言葉で人の姿や関わりに創造力が働き、左右される生き物だとすると、言葉の選択は大事になる。だから「認知症の人」という呼び方や捉え方にもこだわりを持って、今も伝えているし、安易に「認知症の人」とは使わないし、言わない。そもそも、言葉を超越したところで繋がろうとする人たちにとっては、あまり言葉は意味をなさないとさえ感じている。僕にはどちらも作用するから面倒くさい。「徘徊」の言葉の善し悪しの議論は、僕の中では終結しているので、世間は今更何を言っているのだろうと正直感じたし、逆にまだまだ議論は尽くせていないと感じた。究極の話、誰かが使うとか使わせないとか、使わないようにしようとか、自分の感性に照らし合わせて、各々が決めることだろう。現に、昨年美唄市で行った訓練では、「徘徊」という言葉、文字はどこにも見当たらなかったし、専門職も含め、美唄の市民の皆さんが話し合って決めたそうだ。つまりは、その割合で世の中の成熟度は決まってゆくのだろう。昨年、支笏湖の山林の中を走る国道で、一心不乱に歩くお婆さんをみて、和田さんと僕は瞬時に支えなきゃと思った訳で、そこに「徘徊」という言葉は存在しなかった。(この時の詳細を知りたい方は、和田行男さんの中央法規出版のブログを検索して欲しい)人と人とが支え合い、助け合う世の姿がそこに集約されていたように思う。「認知症」という言葉も、「痴呆症」だったが、専門職も含めて、未だに問題な人と扱っている人はいる。だから、虐待や不適切なケアと呼ばれる行為が未だになくならない。その一方では、その本人が声をあげたり、本を出したりしてその誤解を解くために、一人称の体験を通して真実を語っている。さらに最近では、バーチャルリアリティ、VRという一人称の体験を通して認知症の理解を深めようというシステムまで生まれている。当事者が社会に向けて声を出さなくてはいけない世の中に、僕はもう、言葉の問題ではない域に来ていると感じる。「徘徊」と呼ばない、使わない社会というよりも、互いに観心から関心へ、関心から感心へ、感心から歓心へ、そして観心へと、人種や立場を超えた多様性の「かんしん」へのスパイラルへと繋がることを信じる。そうなると、自然と言葉の選択が行われる次のステップへと人類は進化してゆくだろう、と言うか、それは一部の人たちがもうすでに行ないはじめている。

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