あのですね、今まで生きてきて色んな経験をして解ったことがあります。それはですね、生きている中で起こる出来事って、神様に「さぁどうする?」って、なんか試されてるような気がするんですね。
で、何故そう思ったかと言うとですね、自分の身の回りで起きる出来事に対して、ついジャッジをしてしまう自分がいまして、例えば、最悪な出来事と自分がジャッジしたとしても、時間が経つと、その出来事によって起きた状況が変わっているんですね。そんなことは当たり前じゃないかと言われればそれまでなんですが、しかも、僕がとジャッジした最悪の状況のままではなく、逆に好転している事がほとんどなんです。これ、よくは解らないのですが、もしかして試されてた?って思うんです。
僕には、このことを科学的には証明することはできませんが、本能的、経験的、体感的に確かに感じていることは、その実験のプロセスから結果に至るまで、「もうダメだ」「最悪だ」というジャッジは必要ないということです。
振り返ってみると、僕はいつも物事に対して一喜一憂してきました。
自分にとってとか、会社にとって課題が生じた時に、その度に動揺して、不安で不安でいてもたってもいられない心境になるんです(笑)
60歳を過ぎた頃に転機が訪れまして、心が保てず、うつになり、しばらく休養させていただきました。そのため、アウルも、険しい峠を越えられるかどうかの瀬戸際を経験しました。沢山の人たちが去りました。でも、沢山の人たちが助けてくれました。(これも僕の強み)そのお陰で、なんとか峠は越えられました。それでも不安は拭えきれないでいました。
ある時、なんだかそれも疲れちゃいましてね。その時に、やるだけの手は打ったあとは、その後の経過を実験的に観察してみようと思って、少し他人事のように物事の経過を客観視して観察してみたんです。わざとに、意識してみたんです。
したらですね、確かに僕の手立てもそうなんですが、自然と物事が、時に痛みも伴いながらも解決したり、治ったりするんですね。あとは、そのことを僕がどう解釈するかが物事の納めどころなんでしょうね。
今の僕の物事に対する解釈はその程度です。人前で偉そうに喋っていますが、僕自身今も不安の中にいますし、日々悩みの中にいます。でもそれは決して悪いことではなく、これから来る最良の結果のプロセスに過ぎないのです。
前にインスタのリール動画で「最後には、すべてがうまくいくんだ。もし今うまくいっていないのなら、きっとそれは最後じゃないんだよ。もっと自分を信じたらいいよ。」って投稿したんです。最後には、なんだかんだいっても治まるところに治まるんです。
それは結果であって、確かにその過程ではうまくいかないことだらけの連続です。生きていたら、色んなことが起きるじゃないですか。僕は、その度に起きる出来事に対して、いつもドギマギしてしまうんです。こ〜なったらどうしようとか、あ〜なったらどうしようとか、最悪な状況を想像してしまい、落ち込むんです。これには、まったく根拠はないし、起きてもいないことを勝手に想像しているだけなんです。笑えるでしょ(笑)
これ僕の弱点だと思うんですけど、別の捉え方をすると、本能的に危機を感じて自分や何か大切な事やものを守ろうとして、本能的な反応としてドキマギしてるとも思えません?そう考えると、それはそれで弱点ではなくて強みでもあるということにもなりません?
僕の中での結論は、内に起こる全ての出来事は、ぜ〜んぶ実験だと思うこと。その上で、その出来事や物事を観察していくと、例えば、この最悪な状況やどん底の状況が、新しい前向きな状況や良好な状態を生むための出来事に過ぎなかったということに気づけるということなのです。どこかの扉が閉まれば、別の扉が開くという訳です。
現に僕の場合そうでしたし、これからもそうなんだと思えるようになったことは結構最強なんです。なので、人生は実験だと思って生きていると、たとえ落ち込んだとしても、必ず好転する経験をするので、大丈夫なんです。
自分の都合の良いことばかり書きましたが、いいことばかり続くわけはないので、そのためにも、この人生教訓として、この実験の法則の仕組みを理解していれば、次は良くなると思えるし、気持ちが楽になるし、次は落ち込むぞと思えば、その対策や気構えを持つことが出来るという訳です。
これも自分や何か大切な事やものを守る一つの手段として、どうせ生きるんなら楽しく生きたいという思いから生まれた捉え方なのです。
つまづいたっていいじゃないか、人間だもの(笑)人生を別な角度から見てみるのも時にいいかもしれないですね。
Nao