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『クワガタ』

2018年07月19日 | 未分類

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子供の頃追い求めたクワガタ

カブトムシもいいけど

やっぱりぼくはクワガタ派だ

それが今庭先の白樺の木の根元につがいで生活している

毎日そっと覗き込み見守るのが日課になりました^ ^

Naoto

07:49 | 記事 nao [コメント:0]

『仕事』

2018年07月15日 | 未分類

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昨日から仕事で東京に来ていました。今日は帰るだけなので、心の師であるMさんの美術館に立ち寄ってきました。Mさんの美術館は、行く度に感性に響く処です。

Mさんは、書を書くたびに思ったそうです。

「書には、その人間のすべてが出てしまう。知性、教養など、その日の体調も、すべてが・・・」

Careとまったく同じだと感じました。

ぼくは昭和63年7月、26歳の時にこの業界に寮父として入りました。今年で56歳になりますから、もうかれこれ30年になります。

これは初めて語ることです。

この職に就いて以来、認知症(当時は痴呆症と表現されていた)のCareのことはまったく解らない時代に、ぼくは、お爺さんとお婆さんと向き合うたびに自分の非力さを感じて、自分を責める日々が続き苦しくて苦しくてたまらなくなりました。

その苦しみは、13年間続きました。この国にグループホームが定着するまで、そこでのCareの在り方を創り出す過程を経験しましたが、ぼく自身は崩壊寸前でした。

ある日ぼくは悟りました。

とても気づくのが遅いですが、ぼくは関わり手としては向いていないと悟り、やめることにしました。その代わりに自分に出来ることはないものかと模索し続け、2つ答えにたどり着いたのです。

一つは、お爺さんやお婆さんたちが幸せに過ごすことが出来るような居場所の創り手になること、でした。それは不思議と絶対に出来るという、まったく確信のない、根拠のないもので、今振り返っても自信を持ってこれだ!と言えるものはない日々でしたが、ぼくの想いを形にしようと、沢山の方々の力が一気に結集し、それは出来上がりました。

それで出来たのがアウルです。

もう一つは、今までのCareの経験を語ることでした。

ですから、ぼくが認知症について語るそのほとんどは、その時の苦しみの連続で感じたことばかりの経験です。ぼくは、ぼく自身の経験のすべてを反面教師として、ぼくと同じように苦しみの中に居る人たちのために、生かそうと心に決めました。

その経験のほとんどは失敗ばかりでした。うまくいったと感じることはほとんどなく、もしうまくいった話だと聞き手が感じたとすれば、それは、話し手が自分の過去を美化する人間特有の記憶の特性が働いたものであって、それらが生かされて脚色された話です。

今、ぼくの語り手としての活動の原点はそこにあります。なので、話し手の私が凄いのではなくて、アウルで日々お爺さんお婆さんと向き合っているスタッフが、もの凄く凄い人たちなのです。

ですから、ぼくが一番尊敬する人は誰ですかと尋ねられたら、迷わずアウルに居るすべてのスタッフたちですと答えます。それだけ凄い人たちなのです。

多分、その当時のぼくと同じように自分を責めているスタッフがいるかもしれません。でも、お互いに支え合うチーム創りで、その多くは解消されると、ぼくは経験から感じるので、その為にぼくにできることを最大限しています。

あとは、個々人の感じ方ですから、個々人の感じる前提まで、ぼくが直接変えることはできませんので、ただ、自分自身で自分自身の前提を見つめることのできる環境を用意することはできます。つまり、ぼくの仕事は、彼らが豊かに生活できるようにあらゆる環境を整えることなのです。

そしてそれは、アウルという枠を超えて拡がっていけば幸いです。これもぼくの仕事になりました。

ですから、ぼくの仕事はひとつ増え、以下の3つになりました。

1.アウルやアウル周辺に居る人たちが幸せに暮らせるような環境を整えること

2.語り部であること

3.アウルの枠を超えたアクションに繋げること

Naoto

16:55 | 記事 nao [コメント:0]

『大切な3つ』

2018年07月13日 | 未分類

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照れずに言えばいいのに
有難うって

素直に言えばいいのに
ごめんなさいって

普通に言えばいいのに
おはようって

だいたいこの3つが言えたら
人間うまくいく

Naoto

20:23 | 記事 nao [コメント:0]

『お爺さんとお婆さんと』

2018年07月12日 | 未分類

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お爺さんお婆さんとかかわって

自分の心の貧困さを知った

お爺さんお婆さんに触れ

自分の不器用さに気がついた

お爺さんお婆さんと居て

お爺さんお婆さんと共に居る以外に道はないと覚悟した

Naoto

21:51 | 記事 nao [コメント:0]

『ツバメの巣』

2018年07月11日 | 未分類

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ツバメが巣作りをしているのを

そっと見守ってきましたが

やっと出来上がったようで

しかも卵🥚を産み温めているではありませんか

ちょうどアウルの玄関前

幸せが訪れますように^ ^💓

11:22 | 記事 nao [コメント:0]

『お見舞い』

2018年07月08日 | 未分類

西日本豪雨の被害に遭われた方に心からお見舞い申し上げます。全国の多くの仲間の地域に、甚大な被害が出ていると知り心が痛いです。被害の拡大がない事、1日も早い復興を祈るばかりです。

12:27 | 記事 nao [コメント:0]

『出来事と存在価値は別物』

2018年07月06日 | 未分類

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午前中の講義を終えて、お昼は、せっかく函館まで来たので、ラッキーピエロ(函館方面で有名なお店)のミートソースでも食べようかと思い来たが、残念ながら、ここでは扱っていなく意気消沈。仕方なく、焼きそばでいいかと注文のために並んで待っていると、3人組の女子(年齢にすると20代後半・アラサー)たちが入店し、「えー!何しようかな〜、迷う〜、どうしよう〜、困る〜」みたいなキャピ!キャピ!と言いながら、少しづつぼくの前に移動。順番が近づくにつれ、なんだかんだ鼻かんだと確実にぼくの前に出たのだ!仕方ねぇ〜なぁ〜と思い譲った(苦笑)が、今度は、真後ろにいた、お爺さん(年齢にすると70代)が、アラサーたちが注文している間に、横に出たと思いきや、俺の前にいきなり出たではないか!目を疑った!目を疑わざる終えない行動に出たのだ!まさしく「目を疑う」とはこのことだ!あまりにも突然の出来事に言葉も何もかも失い、心の声が、「あれ?あれ?そもそも俺のこと見えてますか?」「もしもし?皆さん!俺の存在見えますか?」と訪ねたくなったが、ただただぼくの心の中でこだまするのと同時に、自分自身の存在を疑った。もしかしたら、俺は死んでるのか?頭の中には、映画ゴーストで流れた「アンチェインド・メロディ』が流れているではないか!そう!ぼくは、2度も存在を無視されたのだ!そのことと、ラッキーピエロとは全く関係がないので、2度と来るものか!という乱暴な話にはならないが、ミートソースは無いは、2組にも列を越され、自分自身の存在が否定された感じがした(^^;;しかし皆さん、ここで拗ねていてはいけません^ ^自分の周囲で起きる出来事と自分自身の存在価値とは、全く別物ですからご安心^ ^大丈夫^ ^💓👌正直、心の中で「この野郎!」と呟いたが、ぼくは確実に存在している価値ある人間なんだ!そう自分に言い聞かせながら、やっと豚玉子焼きそばを注文し食べることができたのだ(^^;;

(ラッキーピエロ 森町赤井川店)

13:41 | 記事 nao [コメント:0]

『続Being』

2018年06月30日 | 未分類

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昨日、「Being」の記事を投稿した。言い忘れていたことが、降りてきたので、続編として追加しておく。
昨日の記事を簡潔に言えば、自分が発したことは、自分に還ってくるということだが、人に言ったことは、自身の本質的な課題であるということを伝え忘れたので追記しておく。ということは、人から言われたことは、基本あなた自身の存在の本質とは全く関係がないということ。逆に、その人が誰かや何かを対象に言ったことは、その人の本質そのもの、若しくは課題だということ。だから、人から言われたことに一喜一憂する必要などどこにもないということ。例えば、子供の頃、あなたはダメな子だとか、橋に下から拾ってきたとか、勉強しないとダメになるとか、だからダメなんだと、いいだけ脅迫されて来た人もいる。それが、自身の前提を創っていたりする。本当は、親から言われたことは、その親自身への向けた言葉なのだということ。だから、あなたの存在価値とはなんら一切関係がない。ということは、親自身も若しくは、あなたの悪口を言う人は、自分自身の課題に対してどうにかしなければならないと、本質のところで苦しんでいる内面が表に出ているだけなのだ。それはそれで親の気持ちをわかってあげて欲しい。だから、何度でも言うが、あなたの存在価値とは一切!一切!一切!関係がない!もうわかったと思うが、自分を他の人間から言われた言葉で責めることはない。ただただひたすらに自分を大切に、自分を褒めて讃えて、たくさんのご褒美をあげることが、あなたの幸せを引き寄せる。それができるのは、誰かや何かではなく、あなた自身しかいない!もう自分を責めるのはやめにしよう。
つまりは、ぼくがここで発信していることは、すべてぼく自分自身へのメッセージということになる^ ^

10:01 | 記事 nao [コメント:0]

『Being』

2018年06月29日 | 未分類

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人のことをなんだかんだと非難し、否定し、俗に言う悪口を言う人は、基本、自分も非難、否定されているだろうなぁと思う。しかし、この法則は、なにもネガティブなことだけではない。つまり、人のことを善く言ったり、褒めたり、賞賛したりする人は、善く言われたり、褒められたり、賞賛されたりしているということ。しかし、ぼくが言いたいことは、善く言うといいか、悪口を言わない方がいいという話ではない。自分が発信していることは、良くも悪くも必ず必ず必ず(3回も言いました)、自身に必然的に還って来ているということ。つまり、発信者は受信者にもなるということ。人間の多くは、そこに気づけていないというか感じないというか、自身の都合のいい時や場合や話の時だけ、解釈が異なる。基本、人間の記憶は700%間違っていると思っているぼくは、あまり記憶を信じないというか、どうでもいいことかもしれない。結局、人間は自分の都合のいいように、無意識の世界の中で発信している、そんな感じを感じる。例え、もうそんなことはやめた方がいいと、直接本人に伝えたとしても、基本、自分の正しさや前提が優先されるので、いつまで経っても平行線のまま。この現象の前提は、ぼくもそうですが、自分のことをわかってほしい、わかってもらいたい、認めてもらいたい、自分が可愛いし、当然自分を守りたいという表れ。どちらかが、わかったよと受け入れること、「へ〜そうなんだ」(関係性によってはこの言い方は、バカにされたと更に深みに入ってしまう場合があるので、言葉や言い方、表現には気をつけた方がいい)と言ってみることで、相手はトーンダウンし昇華するか、更に興奮して言い続けるかのどちらか。もし、治らない時は、仕方がないから氣の済むまで放っておくしかない。ただ大切なのは、自分を大切にするBeの人間で在ることかな。Beさえ盤石であれば、何も怖いことはないし、安心して不安でいられる。同じ不安でもBeが不安であれば、どんなことでも、どんな時でも安心して不安でいられない。なぜならば、Beが不安だから。ぼくのBeは大丈夫だから、ぼくのDoは安心して不安でいられる。ぼくは、それでいいと感じるし、そう選択するし、そこが一番居心地がいい。

08:40 | 記事 nao [コメント:7]

『ウメ子の会』

2018年06月25日 | 未分類

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平成22年度 協会主催の第1回認知症介護実践リーダー研修終了者で、2、3ヶ月に一回食事会を開いている。

誰が音頭をとって集まったわけでもなく、自然とこの会は始まった。

第2回目の会場が「ウメ子の家」という創作料理のお店だったので、この会の名前を「ウメ子の会」と呼んでいる。

かれこれ、8年続いているが、ぼくは一回忘れてすっぽかした以外は、全部参加している。

たわいもなく近況を伝え合い、次第にお酒が入ってくると、それぞれの夢や言いたいことを語り出す。ぼくにとってこの会は、肩を貼らずに心地よく過ごせるから、毎回顔を出す。

今日は、7人のメンバーが集まった。2時間の飲み放題終了後から、なんか知らんけど盛り上がった。協会のこれからのことや目指すべきこと、などなど様々に語り合った。

しかも、なんと!第1回のリーダー研修から、2人の認知症介護指導者が生まれ、さらに今年度1人指導者研修を受けることになっている。

この会がこれからも、上下関係やルールや決まりのない集まりを継続して、いろんなアイデアが生まれてくることを願っている。

次回は雪が降る前に集う約束をしてわかれた。

みんな!今日も有難う^ ^👍

23:55 | 記事 nao [コメント:0]