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【いやはやなんとも】

2018年10月10日 | 未分類

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いやはやなんとも

9月25日より紛失していた、大切な眼鏡👓が見つかったのです^ ^

丁度東京出張中の出来事で、眼鏡👓の紛失は、これで二度目。

一度目は、黒松内の温泉♨️に忘れてしまい、そのまま見つからずに諦めました。

大好きな眼鏡👓だったので、諦めきれずに、再度同じ眼鏡を注文したのですが、入荷するまでに時間がかかるということで、数ヶ月かかりましたが、再び自分の目元へ戻ってきた大切な眼鏡👓でした

それをまた失くすという前代未聞のバカかという話ですよ。

紛失した際に居た無印の有楽町店や宿泊のホテル、飛行機会社、スイカをチャージしたセブンイレブン、ありとあらゆる可能性のあるところに問い合わせましたが、いい返答がなく混乱状態(*_*)

記憶が吹っ飛び、まったく覚えていないと言う最悪な状況に、混乱して内心取り乱してしまい、もしかしたら盗まれたのではとか、落としたのではとか、自他共に疑い出し、あらゆる疑念が脳裏を駆け巡ったわけです。

井上陽水の「夢の中へ」という曲が何度も何度もヘビーローテーション状態♬

「探し物は何ですか?見つけにくいものですか?カバンの中も、机の中も、探したけれど見つからないのに、まだまだ探す気ですか?それより僕と踊りませんか?夢に中へ夢の中へ行ってみたいと思いませんか?」

夢の中なんか!行ってみたくないやい!

と叫びました^ ^

でも

「探すのをやめた時、見つかることもよくある話で」

の歌詞を思い出し、素直に一旦諦めることにしましたのです。

だがしかし(駄菓子菓子🍭)

昨日再度、忘れかけていた眼鏡👓を紛失した時のことを思い出し、冷静に考えてみたんです。

丁度、無印の有楽町店で、フィッティングルームで、服の試着をし終わった後の数十分の後に、眼鏡👓をしていない事に気がついて、慌ててフィッティングルームに戻り、店員さんに眼鏡👓の忘れ物がないかを尋ねたのですが、店員さんは、どうぞご覧になって下さいとフィッティングルームを手招きしただけで、ちゃんと尋ねていない事に、少し物足りなさを感じて「ここにはないな」と決めつけてしまっていた自分を思い出したのです。

その物足りなさを、確かなものにしようと、ダメ元で昨日電話をしてみたのです。

すると、紛失した日付を聞かれ、眼鏡👓の特徴を聞かれ、メーカー名も聞かれ、お伝えしたところ、「同じ特徴のものを預かっております」との回答が返ってきたではありませんか。そこにあったのです^ ^

嬉しくて、嬉しくて、飛び上がるほどの喜びが感情一杯に溢れ、何度も何度も感謝の意を言葉にして、さらに何度も何度も頭を下げていました。

この話のオチはありません。
何か示唆したいわけでもなんでもありません。

が、人間の記憶というものは、その時の感情や状況により、とても混乱してしまうものだと、少なくとも自分の記憶を辿る際の思い込みに対して思ったわけです。

人の記憶ほど当てにならないものはありませんよ、というお話でした^ ^

めでたしめでたし👍❣️

Naoto

08:41 | 記事 nao [コメント:0]

【自分の機嫌くらい自分でとれよ】

2018年10月09日 | 未分類

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自分の機嫌ぐらい自分でとれよ

若い頃は嫉妬心が強く、嫉妬の達人だった(笑)

自分は人よりも優れていると信じ、真っ直ぐに、我武者羅に、自己主張を繰り返し、エゴの限りをやり尽くしてきたと思う。

自分の意見が認められないと、感情が表に出てきて、自分では抑えきれないほどの感情が身体中に満ち溢れ、心臓が高鳴り、顔が赤く火照りだし、まるで、ふてくされ、手が付けられない餓鬼である。

今も、その片鱗は垣間見られるが、若い時ほどではなく、随分と修正が効くようになり、歳を重ねるごとに、それが減ってきているように感じている。

僕の尊敬するひとりでもある、津端夫妻(映画 「人生フルーツ」の主人公のご夫婦)は、ご自分達のこれまでの暮らしを「コツコツと、時をためてゆく暮らし」と素敵な表現をされ、僕たちに、歳を重ねることで人間は老いるのではなく、成長するということを示唆してくれたと、僕は思っている。

命を全うするその瞬間まで、人間は成長する、そう信じられる。

成長とは何か?

「育って成熟すること」

基本、自分を育めるのは自分でしかないと思っているので、その他のことは、自分を育むための道具であったり、機会であったりに過ぎないと考えている。

さらに自分をどう育みどうなるかは、人それぞれに違うし、この世界で起こっている、あらゆる経験を通して学ぶのでしょう。

そう考えると、僕が経験した嫉妬は、自分を成長させるための機会だったということになる。

あらゆる経験を機会と意識して、一所懸命に育もうとする人も、そうでない人であっても、人はそれなりに成長する。

人間の本質は、意識、無意識に関係がなく、それぞれの世界で、必然的に成長すると、遺伝子や細胞レベルでは、すでにその仕組みが仕込まれているようにも感じる。

人間は皆応分にその機会と経験を与えられているのだと思う。

だから

「自分の機嫌ぐらい自分でとれよ」なのだ。

Naoto

07:45 | 記事 nao [コメント:0]

【アウルの全ての皆さんへ】

2018年10月07日 | 未分類

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アウルの全ての皆さんへ

おはようございます。

今日は、先日行われました、北海道高齢者虐待防止推進研修会でお伝えしました大切なことをまとめましたので、全スタッフの皆さんへお知らせ下さい。


【北海道高齢者虐待防止推進研修会を終えての感想とお願い】

この研修会に参加されたスタッフの方も数名いらっしゃると思いますが、私が講義を担当した第2分科会の大切なことをお伝えしたいと思います。

すでに、アウルのホームページのギャラリー&ブロブにも投稿しましたが、この分科会では、虐待だとか不適切なケアを未然に防ぐためにどうするか、ということを参加された皆さんで共に考えるのですが、やはり最終的には、ケアよりCARE、CAREができてケアに繋がると言う考えに、僕は至ります。

CAREができてと言うか、CAREのベースを一人ひとりとチームとの共有で創り上げて、ケアに繋げてゆくと表現した方がいいでしょうか。

ここを徹底的にやるっきゃないかなと思います。

そもそもな話ですが、私が使っている「CARE」と「ケア」の言葉の違いをお伝えします。

ケアは日本語
CAREは英語

たぶんこの国で使っている「ケア」は、英語の「CARE」からきていると、僕は認識しています。

そう考えるとですよ

CAREの日本語訳を調べると

CAREとは➡︎気にかかること,心配,気がかり,不安,心配事,心配の種,気にかけること,(細心の)注意,配慮,気配り

となるんです

ケアの訳を辞書で調べると
ケアとは➡︎介護・世話をすること

となるんです

??????????

?を連続10回も使ったのは初めてです(笑)

この違いはなんだろうと疑問➡︎自問➡︎自答の繰り返し

本来のケアの起源を考えると、気にかけることから始まるわけで、いきなり介護じゃないわけですね。

「気にかける」と言う、いかにも日本的な意味合いから、我々日本人の所作に繋がる原点とも考えられる訳です。

ですから

『常に良質なケアは繊細なCAREから生まれる』

『思考と考え、言葉と言う、行動と行い、このバランスと繋がりの信頼関係の構築に気にかける、又は気を配る事によって、結果的に虐待が防止される』

と言う考え方(哲学)を持つに至って、その考えを伝えてきたわけです。

そこで、僕が考えた「虐待を無意識的に無くす方程式」を紹介します。

『良質なCARE=良質な所作=良質な信頼と関係=良質なケア=お互いの心地良さ』

僕たちの仕事は、この「良質なCAREとは何か」を考える時を重ね、貯めて、所作に置き換えてゆくことだと思うんです。

身体拘束や虐待の研修を受けて、虐待にあたるか否か、身体拘束にあたるか否かを話し合ってもまったく意味がないとは言いませんが、正直な気持ち、意味がないと僕は思います。

それよりもですね、一人ひとりのことを、あ~でもない、こ~でもないと、関係する皆さんでたくさん語り合うことでしょうね。座学の研修を受けることも大事ですが、それ以上にカンファレンスとか、関わっている人一人ひとりのCAREをアウトプットする機会や場を多く持って、たくさんの人々の意見を共有した方がいいと思いますし、もし可能であれば、ご本人や家族も一緒に出来るとなおいいでしょうね。

これが、僕のCAREとケアの哲学です。

しかも、それは良質なチームで行われることです。

そこから良質なCAREとケアのスパイラルを築いてゆくことだと思います。

どうか皆さんお一人お一人のお知恵を集めて、良質なCAREの蓄積から、良質なケアへ繋げていただけると幸いです。

どうぞよろしくお願い致します。

2018.10.8
宮崎直人

なお、このメールに対しての返信は不要ですので、よろしくお願い致します。

宮崎直人

iPhoneから送信

10:36 | 記事 nao [コメント:0]

【タイムラグ】

2018年10月06日 | 未分類

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タイムラグ

タイムラグって知ってます?

「関連する二つの事の間に生ずる時間的なずれ」と書いてありました。

例えば、ひとりの人や物や事に対する情報が、ズレて伝わるってくること。

さらにその情報が、複数の人間によって伝えられると、それぞれの今があるんです(笑)あたかも今起きているかのように伝えるし、伝わるんです(笑)

そうなるとですね、「今」が混乱した状態になる場合があるんです。

これ、結構手がつけられません(笑)

笑い事じゃないですけれど、あとで俯瞰してみると笑えるんですけどね(笑)

これは単なる自分の中での、時系列による情報の整理の仕方かもしれませんけど。

でも、そこにそれぞれの感情が入るとですね、あたかも今この瞬間や今もなお継続的に起きているかのように情報が伝わるんです。

だから、伝え方がとても大事になってくるんですね。

だから、意味なく結構嫌な思いをしてる人いるんじゃないですか?(笑)

わかります?

そういうのタイムラグって言うんですかね、それ嫌だなって思うんです。

すべては、今、今、今の瞬間の連続。

時間という概念があるばっかりに人間はその「今」を「時間」へと変換します。

そんでもって、「過去」や「未来」という時間を想像して、なんだか「今」の言い訳をしているようにも感じます。

本来であれば「今」しかないよなぁ〜と思いつつ・・・。

「いま」って言った瞬間それは過去へ行く、今この瞬間が過去に行く。

でも、そう言いつつも、「いま」や「いままで」を意識しながら明日を想像もするんですね。

すべては、「時」ではなく「今」の流れの中に生きているって感覚かな。

そう考えると「時」という概念は存在するのだろうか?

そもそも「今」ってなんだ?

あれ?

なんだかおかしくなってきたなぁ
(笑)

今度、佐治先生に逢いに行くから、その時に聞けたら聞いてみようっと^ ^

Naoto

10:12 | 記事 nao [コメント:0]

【発想の力】

2018年10月05日 | 未分類

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発想の力

アウルがオープンしてどの位経ってからかは、もう忘れちゃったけれど

Nさんというお爺さんの話です
ちなみに、ブリキ職人でした

以前は、講演会等でご紹介していましたが、最近はほとんど伝える機会が少なくなりましたね

今日は、普段私が使っているNさんから教えていただいた、リサイクル♻️の品(発明品)をご紹介させていただきます

写真にあるプラスチックでできた「輪(内輪にギザギザのついたやつ)っこ」です

なんだと思います?

これ、ペットボトルの蓋をとめている部分で、輪っこの部分なんです(写真)

わかりますかね〜

これを捨てないで、日常のあるものに使う道具(発明品)に変わるんです(笑)

例えば、スマホや携帯の電源コードを束ねる為に使用する道具に変身します^ ^(写真)

凄いでしょ!

なにが凄いって、この発想がハンパないですね^ ^

この発想の力が、Nさんの「有する能力」なんです

だから、日常にあるいろんなもの(ゴミ)が、便利な物へと変身してゆくんです

こんなことを繰り返していると、そりゃぁ〜自然に脳を使うからなのか、認知機能の進行を緩和していくんだと思います

ただこれはNさんの結果であって、皆さんにそうなるかはわかりません

ただ言えることは

1主体的に行なっていること
2やりたいことであること
3好きなことであること
4人の役に立つこと
5人に喜ばれること
6人に伝えられること
7生業が生かされていること

この7つの「こと」が、うまい具合に織り成した結果だと思ってるんです

なんだか懐かしくなってね^ ^
お伝えしたくなったのでお伝えしました^ ^

皆さんも是非試してみて下さい

凄いでしょ、Nさん^ ^

ちなみにNさんは、あちらの世界へを旅立っていますから、逢うことはかないませんが、こんなリサイクル♻️道具(発明品)を通して思い出し、使うことで、すぐそこにNさんがいるような気がしますよ^ ^

「社長〜!」って、聞こえてきそうです^ ^

あはははは^ ^🙏

Naoto

07:15 | 記事 nao [コメント:0]

【Kさん】

2018年10月04日 | 未分類

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Kさん

Facebookの【認知症】の投稿に、仲間のKさんからコメントをいただいて、そのやり取りがなんかいかったんで、ここでご紹介します。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

Kさん〜

「知らないことをわたしは知っている。」これは無知の知。

「知らないことの方が知っていることを超えていくことを知っている。」これは、知を超越した無知の知といえますか?

私〜

これはね、宇宙で言うところのビックバーンですね。無限です^ ^果てしない知の拡がり。単純にそれを知っていると言うだけでは、人間の自惚れ。物理学の世界では観測問題という問題があるようです。目に見えない、これ以上わからないという世界ですね^ ^
あのアインシュタインもGE(ゴットエナジー)と言ったそうです。
僕は、物事を知ろうとするためには、もっと広く、大きく、あらゆる角度や方面からみてゆくことが大切だと感じています。

Kさん〜

実は専門性について話を伝える機会がありまして…。人への「支援」このことばも一方的のような気がして、サポーターよりはパートナー、でもなんかしっくりこないんです。

私〜

ごめんなさいね。タイムラグで、トンチンカンなことを書いてしまった。

(その後、気を取り直して)

そうですか。支援という言葉の意味を分解すると、僕の理解で言うと、支援とは、相手の有する能力を見極め、支えるところを見極めて、相対する人が自ら出来るように援助する、又は、必要な時に、必要な分だけ、必要な支えを繰り出すことだと思います。ただ、この「必要な」を見極める情報をどれだけ集め、その情報を分析して、形を予測して、姿を描けるかが要になるのだけれど、そこをどう伝えるかが至難の技ですね。

支援でわかりやすいのは、震災時の支援も例え話ではわかりやすいですよ。必要な時に必要な物資や人がなく、すでに満たされて自立しているにもかかわらず、沢山の物資や人がくる。この見極めができて、届けることができて、さらに自ら生きようとする姿に繋がることが専門性ある人への支援ではと考えています。

このような話を車座になって語り合いたいですね。そんな場があると面白いのになぁ〜。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

と、そんなやり取りをして、締めくくり終えました。

Kさんとのやり取りは、これが初めてではありませんが、なんかいい感じなんですよね。
基本的に僕は、なんちゃって人間ですから、僕自身が、上辺だけではなくて、さらに深掘りすることができるいい機会なんです。活字ではかなり厳しい内容でも、なんとか表現を考えて発信することが大事であるという経験もできる。

いいことです^ ^

ありがとう! Kさん^ ^

また、よろしくお願いします^ ^🙏

Naoto

※写真は、自宅で採れたイチゴちゃんです^ ^🍓

11:23 | 記事 nao [コメント:0]

【なんでもそうですが、そこにどんな想いを込めるかです】

2018年10月03日 | 未分類

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なんでもそうですが、そこにどんな想いを込めるかです

今日は、私の前職の上司の話をします。

今から30年前、私は大きな社会福祉法人に勤めはじめました。その当時は、介護の世界には国家資格はなく、特別養護老人ホームの「寮父」という職名でした。

その後、特養の生活指導員、デイサービスの生活指導員、グループホームへと、そこにある事業所の全てで仕事をする機会と経験をもらいました。

今思うと、施設、在宅と経験していたことが、私の仕事の見識や見方・捉え方の幅が広がるきっかけになったと思えます。

薄情にも、いつの頃だったかはもう忘れてしまいましたが、札幌にある有名な大きな某社福の募集広告に目が止まり、応募するため、上司にその旨を説明し、退職届を出したことがありました。

上司は、私を問いただすでもなく、引き止めるでもなく「頑張りなさい」と退職届を受理してくれました。

採用試験を受け、後日結果を待っていたところ、不合格の通知が届きました。相当落ち込みました。相当、自惚れていましたから、それはそれは見事な落ち込みでした。

数日後、意を決して不合格の旨を上司に報告に行きました。合わす顔などありませんでした。

なんの経験もなく、焼き鳥屋に勤めていた私を、寮父として採用(拾ってくれた)してくれた施設長に顔向けなどできませんでした。

情けなくて、情けなくて。
すると施設長から意外な言葉をかけられました。

「じゃぁ、辞めないでいればいい」と言い、今の職務の継続をすすめてくれたのです。

私は、言葉を失いました。

今思うと、その時が私の人生の転機でした。

未来は誰にもわかりませんが、私を信用し、信頼してくれた上司の寛大さが、今の私の在り方に繋がっているのだと感じています。

上司とは、今も変わらずお付き合いさせていただいているというか、今もなお私を引き立てていただき、何かあったら相談に乗っていただける関係でもあり、大変失礼かもしれませんが、兄貴のような存在と思っています。

私の勝手な想いですが、今の自分に嘘偽りなく、正直に懸命に生きることが、道を開いていく基本になると確信しています。

最後に一言

『どんなことがあっても信用を裏切ってはいけない』

と、そこはかとなく・・・想うが、僕の中には、損得や見返りや計算があるね。

本当の信用とか信頼は、そんなもん関係なくなっちゃうことだと思うな。

だから、まだ「裏切る」とかという言葉が残るね。


Naoto

08:17 | 記事 nao [コメント:0]

【類は友を呼ぶ】

2018年10月02日 | 未分類

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類は友を呼ぶ

ここ数年、事業所のスタッフや仕事上のお付き合い、プライベートのお友達や仲間の繋がりが変わってきている。

離れていく人もいれば、意識的に距離を置くようになった人もいる。逆に共に仕事をすることになった人もいれば、一度アウルを退職したのち、やはりアウルで仕事をしたいという人もいる。

そもそも「類は友を呼ぶ」という言葉は、どちらかというとネガティヴ感があった。

だがしかし(駄菓子菓子)仮説を立ててみた。

自分の周囲の人達の存在=自分の位置(レベル?)

つまり、自分の周りにいる人たちを見ると、今の自分の位置というかレベルがわかるのではないかということだ。

または、そうした考えで周囲の集まりや繋がりや出来事を捉えると、今の自分のレベルそのものとも思える。

善し悪しの問題ではないが、自分の人間関係で、そのステージが変わっていっていることに気がつく。

そう考えると、離れていった人間も、距離を置いている人間も、その後の人間関係や立場やお金の繋がりを俯瞰してみると、その人たち損得勘定や腹の内がみえてくるのでおもしろい。

何度もいうが、その人間関係に応じて、住む世界のステージが変わってゆくということになる。

この法則をシンプルに表現すると「自分を知りたきゃ、自分の繋がりをみよ」ということになる。

誰と何と繋がっているかで、自分の今がわかるということだ。

そう考えると、仕事も人生も、これからどんな世界のステージに立って創造してゆくかが、楽しみになる。

ステージが変化するのではなく、自分にとって新たな世界の人たちと共に何かを創造するステージと捉えると、もの凄くワクワクするし、納得というか、理解できる世界になる。

だから、変化に応じて思い悩んだり、自分を責めたりするのはバカらしく、今まで頑張ってきた自分を否定することになるし、かわいそうなので

今の自分の仕事や人生のステージの変化を謳歌し、どんどんと類友を引き寄せ、その人たちも自分も共に幸せになろうと思うことにしたのだ。

Naoto

11:35 | 記事 nao [コメント:0]

【認知症】

2018年10月01日 | 未分類

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認知症

自然界の理屈で言えば

ごくごく自然なことである

限られた若しくは今ある有する能力または、今この瞬間変化する能力を持って応じている姿でしかない

認知症を定義し使うことで、その可能性が限定され人類は柔軟性を失うことになる

僕が認知症という言葉を避けようする最大の理由がそこにある

単純に言葉のニュアンスや感じ方や偏見ではない

しかし、究極、この理論を偏見と呼ぶのかもしれない

だから僕はあえて自分のことを「認知症バカ」と呼んでいる

介護の世界から丁寧に観てゆくと、ずっとミクロな繋ぎ方の変化からの応答を捉えて、僕らや、あらゆる環境との関係性を見極めながら支え方を考えるということを追求してきた

そこはそこで大事なことだが

ミクロ的な支援を心地よいものとするには、やはりマクロ的な生活や社会という大きな器の仕組みとしての支えも大事

つまり、認知症を追求すればするほど、認知症から遠ざかってゆく実感に至る

認知症を知れば知るほど、知らないことの方が知っていることを超えてゆく

認知症を知ろうとすればするほど、認知症を感じない本来の姿が際立つ

人類の応えは、そこにあると感じる

Naoto

08:24 | 記事 nao [コメント:0]

【未来は変えるものではなくて創るもの】

2018年09月30日 | 未分類

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未来は変えるんではなくて創るもの

未来を変えるってよく耳にするし、言ってきたけど

なんか最近違うと感じる

未来を変えるっていうことは

すでに未来を自分が決めているという前提の話

変えるとかは

別な言い方をすると

そうなるのでは?

すでに決まっている未来があるという前提

そうなると今の生き方に現れる

未来は変えるものだと

いつまでも過去の結果の今を生きるしかないとか

過去に振り回される今を生きることになる

でもですね

未来は創るものという前提だとどうなるのか

未来の創造のための今を生きるようになる

結果

未来を変えるんではなくて

未来が変わるんです

過去の結果の今を生きるか

未来の創造のために今を生きるか

今の生き方の選択があるとするとどっちを選びますか?

僕は未来の創造を選択し今を生きます

はい^ ^

Naoto

06:44 | 記事 nao [コメント:0]