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【いいことばっか自分のおかげ】

2018年10月20日 | 未分類

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いいことばっか自分のおかげ

わるいことだけ人のせいにすんのはおかしいべ

すべてはみんなのおかげ

いいこともわるいことも自分が元

後始末は自分でしなきゃなんないね

そうは言っても

それができないわたしもいる

本物と出逢うたびに

自分の偽りが

自分の中で際立つ

ということは

まだ本物への伸びしろがあるということか(笑)

じぶん よくやってるよ^ ^

じぶん がんばれ^ ^

Naoto

07:38 | 記事 nao [コメント:0]

【違和感】

2018年10月19日 | 未分類

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違和感

私の原動力は「違和感」でした。

暴言だ、暴力だ
帰宅願望だ、帰宅欲求だ
入浴拒否だ、〇〇拒否だ
弄便だ、不潔行為だ
問題だ、問題だと

そうやって、本人のせいにしてりゃぁ〜、自分は守られていましたからいいですよね。

基本そこが前提だから、全てはここのフィルターを通して彼らをみてきました。

そこに違和感を感じるようになったのが、グループホームに関わり出してからです。さらに、現場から少し距離を置くようになっていった時位から余計に感じるようになっていきました。

なんだかインチキ臭いなぁ〜って。

彼らが混乱してる時って、往々にして周囲の環境や自分自身の変化に適応できてない、順応できていない時だと、今は思えます。

本当は、その混乱も不適切な環境や急激な自分自身の変化に応じているだけなんですけど。

環境って言っても様々ですが、一番厄介な環境が「人」という環境です。

そうした場合は、とことん付き合ってきた経験があります。その時は直感ですね。お婆さんの部屋にお邪魔して、こもってとことん話を聴きます。

一番大事なことは、何を言いたいのか、何をわかって欲しいのかを探って、そこを「そうか、そうか」と、とことん顔を付き合わせて聴き居るんです。

一晩中でも、相手が根負けする位に覚悟して付き合う。

今までに、2人いらっしゃいました。

その後の信頼関係はバッチリです。

しかし、彼らの主観的世界、空間にどっぷり存在して、付き合ったことで、お互いに精神的に自分自身を追い詰めてしまった関係もありました。

それは、アウルを立ち上げ、外の仕事が多くなってきた時でした。中途半端にかかわっていた私は、それを理由に、結果的に逃げちゃったんですね。あれは逃げです。

そう言う方が、1人いらっしゃいました。

私を旦那にしちゃったお婆さんです。

以前は、いいところだけを切り取って面白おかしく、認知症の状態に繋げてお伝えしていましたが、話をしていると、それこそ違和感を感じるようになってきて、苦しくなってきたんです。

苦しくて、苦しくて、話ができなくなりました。

これは申し訳ないというか、その世界にどっぷり乗っかってしまって、どうしようもない状態にまで追い込んでしまった、私の傲慢さの現れです。

でも、今思うと、人間って凄いなぁ〜と思わせてくれたお婆さんでもありました。

お婆さん、私との繋がりと自分を守るのに、どうしたと思います?

子供を産んだんです。しかも、私の子供です。名前も「愛ちゃん」って名ずけて。

どう思います?

笑い事じゃないんですよ。

そうやって、自分を守ろうとするんです、人とか何かとかとの繋がりを繋げようとするんです、人間は。

それも彼女の応じ方です。みんながみんな、そうするわけではないと思います。

その時の僕もスタッフも、もうお手上げです。どうすることもできないくらい、精神的に彼女を追い詰めてしまった罪悪感で、自分を責めました。

その後、一旦病院へ入院することになって、そのまま退去して、元々いた特養に再度入居することができてたので、少しホッとしました。

ただ本当にありがたい事に、ご家族が、これまでのかかわりを理解していただいて、その都度相談させていただきながら進めていましたので、本当に感謝です。

その後、特養のスタッフがフォローしてくれて、特養で命を全うしました。感謝です。本当に、みなさんに感謝です。

特養に戻られたと聞き、見舞いに行きましたが、特養のスタッフと相談して面会は避けることにしました。その時、特養のスタッフに聞いた話ですが

スタッフが「ご主人はお元気ですか?」と尋ねたところ

彼女は「逃げられた(笑)」と笑っていたと・・・。

私たちの仕事は、一人でなんか出来っこなくて、思い上がっちゃいけないですね、本当にそう思えます。

あれから10年以上経って、ようやくここまで話せます。

『これまでを、これからが創る』

本当に心からそう思えます。

Kさんの魂に感謝です。
ありがとうございましたm(_ _)m

Naoto

08:19 | 記事 nao [コメント:0]

【なんでも認知症すぐに認知症】

2018年10月18日 | 未分類

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なんでも認知症すぐに認知症

「認知症」とは、なんと都合のいい言葉なんでしょうか?バッカじゃない?

昨日の義母の話です。

明日、介護認定調査を受けるという日、友人と井戸端会議をしていた時に、その友人の身内が介護認定調査を受けた際の話になり、経験者である友人は、ことば巧みにその時の様子を語ったと言う。

その話を聞いたお袋さんは、なんだか不安になり、なんか知らないけど、断りの電話をしようと、すでに申し込みをしていたケアハウスに電話をしたそうです。

多分、どこに電話をしたらいいのかわからなかったのだと思います。

ましてや、明日のことだから早く断らないと、という焦りも手伝ってか、右往左往したのだと思います。

その話を直接お袋さんから聞いた私の奥さんは、すぐにケアハウスに連絡を入れました。

その際に、以前のお母さんとは違うことを理由に、「認知症が進んでますね」とを言われたそうです。言われた方も不安になります。そもそも「認知症」と決めつけてます。

その話を聞いた私は、まずは本人から直接話を聞かないことにはらちがあかないと思い、お袋の家を訪ねました。

リラックスした気持ちで、話をじっくりと聞くと、お袋さんの元々持つ人に迷惑をかけたくないという気質と性格が大前提にあって、それに不安と寂しさとあいまって、さらに心の友と言える友人の話が拍車をかけ、さらに聞くと、一緒にケアハウスに行くと言っていた別の友人が「ケアハウスに行かないことにした」と井戸端会議の帰り際に聞いたそうです。

友人がケアハウスに行くと言ったことが、自分が心を固めたきっかけだっただけに、そのショックは多少なりとも、その後のお袋さんの電話をかけまくるという言動に繋がっているのでしょう。

まさしく火に油を注ぐとはこういうことを言うのだと感じました。

そんなお袋は、86歳です。

そう言う事情や全体像やお袋さんのアセスメントも把握していない人間が、ましてや信頼関係も人間関係もできていない人間が、意図も簡単に「認知症が進んでますね」というのは、いささか勇み足ではないかと、正直、湯沸かし器が沸騰しそうでしたが、私もいつもここら辺で失敗しているので、歳も歳なので、少し時間を置いて様子を見ようと思いました。

今日はいよいよ介護認定の日です。

今朝、お袋に電話を入れました。幸いにも、奥さん(娘)が昨夜から泊まっていたので、お袋も安心して落ち着いていました。昨晩もぐっすりと寝たようでした。声の張りもあり、元気も食欲も意欲もあっていい感じでした。

専門職のCAREも大事ですが、やはり、家族のCAREとケアに優るものはありません。

本人の自立と自律を尊重しながら、これからの人生を謳歌して欲しいと願うばかりです。

関係者の皆さん

あなたの資格や立場も大事かもしれませんが、その前に、人としてどうよ?

まず、そこを考えろよ!

久々に怒ってます(笑)

Naoto

08:12 | 記事 nao [コメント:0]

【ウリは介護猫🐈?】

2018年10月17日 | 未分類

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ウリは介護猫🐈?

朝、大体決まった時間にウリ(猫)は、僕を起こしに来てくれます。

ニャーニャーと枕元で、僕が起きるまで鳴きます(笑)

その鳴き方がまたなんとも言えない強弱ある優しい鳴き方で

「おはようございます」ニャー
「そろそろ起きる時間ですよ」ニャー

と、言っているように聞こえるのは猫バカだからでしょうか?

僕にはそう聞こえるのです(笑)

僕が起きると、さらにその鳴き声は大きくなり、あたかも奥さんに知らせるかのように鳴きます(笑)

その後の行動がまたビックリ‼️

2階から降りてゆく私を導くかのように前を歩き、その後、真っ直ぐにトイレに導いてくれるのです。

僕が起きたら必ずトイレに行くという生活習慣をウリは知ってるんです(笑)

良き介護猫🐈?です^ ^

トイレに導いた後も、自分もトイレに入り、僕にスリスリと甘えてしばらくトイレで一緒に過ごして、自分の気持ちを満たすと、ドアの前に座り、出ていきます(笑)

おもろいし、凄いでしょ!

仕込んだわけでも、教えたわけでもなく、僕をトイレに導いてくれるなんて^ ^

ですから、僕が例え認知機能が低下してゆく状態になったとしても、ウリがいれば、まずは、朝のトイレは迷わずに行けます^ ^

ウリは、別にアセスメントしているわけでも、ケアプランを立ててDOしているわけでもありません(笑)

強いて言うならば、日々一緒に生活している僕を、気にかけてくれている現れが、ウリの習性と融合した本能の姿なんでしょうかね^ ^

ウリは介護猫🐈だなんて、これっぽっちも思っていないのにね^ ^

人間の勝手な都合の話でした^ ^

あはははは^ ^(笑)

Naoto

07:10 | 記事 nao [コメント:6]

【心が仕事にでる】

2018年10月16日 | 未分類

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心が仕事にでる

僕も色んな仕事を経験してきましたけど

やはり、自分の在りようと言いますか、心の持ち方一つで、仕事に現れるなと感じています。

特に、人と相対するような仕事は尚更です。

結婚式の営業や新郎新婦のエスコートや披露宴の責任者をやらせてもらっていた時は、お客様の将来や一生に一度の晴れ舞台の演出など、如何に「〜したい夢」を叶えるかという仕事。

結婚式当日までの、準備等への不安や焦りや様々な葛藤に対しても配慮が必要な仕事でもあります。

僕は一度、彼らの一生に一度の夢への配慮の無さから、お客様を怒らせてしまい、契約を解除されそうになったことがあります。

今思い返すと、まだ20代そこそこのチャラチャラしたガキが、ちょっと成績がいいからって、上司や周囲からもてはやされてりゃぁ自惚れましたね。そんでもって、有頂天になっていた時でした。

お客様からフロントに電話が入り、式場を解約したいとのことで、すぐに担当営業である私がお話を伺いご自宅に行きました。

すると、怒りを通り越して、口も聞いてもらえませんでした。しばらく、玄関に立ちすくみ、謝ることしかできない私は、情けなくて情けなくて、同時に悔しい思いでいっぱいでした。

その後、しばらくして家に入れていただくことができ、これまでの新郎新婦の不安だったこと、その不安に対して何にもアドバイスがないこと、晴れの日に向けての気持ちが曇りっぱなしであったことを聞き、あらためて、自分の営業マンとしての不甲斐なさを感じ、自分を戒めるしかできない、情けない自分を、ただただ感じているしか出来ず、社会人としての、仕事人としての、初めての挫折を味わいました。

24、25歳の頃だったと思います。

結局、担当営業が変わることでお客様も納得、ご理解をいただき、最後まで結婚式を挙げていただくことができました。

どんな仕事でもそうですが、心が現れるものです。

どう足掻いても、どう繕っても、どう上手いこと言っても、心は現れるものです。

自分の仕事に対する向き合い方をあらためて考えています。

Naoto

14:49 | 記事 nao [コメント:0]

【時を置く】

2018年10月15日 | 未分類

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時を置く

時間って人間の創造の産物。

だから、変なこと言うようだけど、時間って本当は存在しないと思ってるのよ。

でもね、あえて時間という道具を創って、その仕組みを使って

自分を整理できるとしたら、こんないい道具はないねって思った

自分の中で起きている、なんとも説明のつかない感情の葛藤を、時を置くことで整理してくれているとしたら、僕は時間を歓迎するね。

だいぶ落ち着いたよ。

お陰様で。

今まで、色んな経験をしてきたけど、自分の不安も希望も全部当たってる。

思考は現実化するって、昔、色んなところで言っていたけど、その時は、実体験からというよりも、書籍からの受け売りの方が大きかったと思う。

でも今はね、実体験の数が伴ってるから、現実的に、そうだと言えるようになったね。

自分の思考と言葉と行動が、現実を創り出す。これ、間違いないね。

客観的に、若しくは主観的に起きている現実をみてもそう思う。

その時、その瞬間の出来事の善し悪しの評価はもちろんあるけれども、それは棚に上げといて、しばらくして、つまり、時間が置かさると、その出来事自体が変化するんだ。

過去という概念があるとすると、過去への印象や捉え方や見方や、感情や想いが変わるんだよね。

どう変わるかは、これからの自分の思考と言葉と行動が影響するんだということだね。

だから、時間という概念を有効利用して、僕は、時間を置くようにしているよ。

瞬間湯沸かし器だったからね。

すぐ湯が沸いて、グツグツと湯が沸いた状態で注ぐもんだから、ヤケドするのね。相手にも挿れてあげようとするから、相手もヤケドしたぐらいにして、随分と迷惑をかけたね(笑)

その後、次第に、徐々に冷めてゆくんだけどね。冷めた時に、その後の惨劇を目の当たりにして、今度は凹むんよ^ ^

今でも、そんな時があるから、もうこれはどうしようもないね。付き合っていくしかないね、って最近思う。

これが俺だし、出来事のほとんどは気のせいなんだけれどもね(笑)

ウリになりたい🐈

あはははは^ ^(笑)👍

Naoto

13:38 | 記事 nao [コメント:0]

【信じるということ】

2018年10月14日 | 未分類

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信じるということ

何かを信じる自分を信じるということ

偽りの信じるには

自分の中にある何かへの期待に右往左往されるということ

極端に申し上げると

どちらも

何かや誰かがどうだろうと関係ないということ

つまり

すべては自分が源であるということ

そう思っている

揺るぎない「信ずる」という念と言論と行為は

何ものにも妨げられない、唯一無二の自由な存在として、自分が正しいと思ったことをするための源となる

そこにはひとつの曇りや疑いや偽りがなく

そう思える自分を生きるということ

Naoto

07:03 | 記事 nao [コメント:0]

【なんのため?3】

2018年10月13日 | 未分類

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なんのため?3

あのですね。

僕の仲間や知り合いでも、沢山の素敵な取り組みをしてる人がいるのね。

面倒くさいから言うけど、そんな仲間たちこそ、ちゃんとその先の姿を描いて、取り組んでるわけね。

俺が言いたいのは、彼らがしていることの上辺だけが強調された姿に、右往左往しちゃいけないってこと。

せっかくいいやり方や方法や道具を示してくれても、見ている方が、その本質である人の姿をみることをしないで、ただ単に取り組みや、やり方や方法だけみて、「スゲェーなぁ〜」だけで終わってるような気がしてね。それじゃ、本質が広がらないって言うか、それが目的にならないように自戒しないとねって話。

例えば、利用している人のそれぞれの有する能力に応じたり、自分のところの地域の実情に応じてやると、色んな形の取り組みや支援が出来りゃ〜いいのね。それぞれに出来ること、出来ないこととかもあるんだから、そこで住まう人の姿の先を想像(創造)していこうよって話。

Naoto

09:26 | 記事 nao [コメント:0]

【昨日感じたこと】

2018年10月12日 | 未分類

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昨日感じたこと

学んだことの質を信じるって言うのは大事だね。量ではないね。本当はさ、感覚的に自由に色んなもんと繋がれたらなって感じるね。例えば、お爺さんやお婆さんたちとの関係なんかね。確かに仕事ではあるけど、そこを超えた関係でいれたらなって。人間的な本質に触れる仕事だから、お互いに嫌なところも出てくるし見えてしまうさ。そこをどうやってお互いに尊びあえるかって話なんだけれどもね。なんかのケア論的な定義とか理屈じゃないね。そこで議論しちゃうと、上部の設えになっちゃう感じがして嫌だね。例えば、研修したらいいとか、本を読めばいいとか、偉い人の話を聞くといいとか、どっか有名な所や取り組みを見学に行くとかさ、そんな感じになるさ。そうなっちゃうと、なんか上部だけの見せかけって言うか、やった感という達成感だけで、あまりその質は問われなかったりするっていうか、世間様に対して、対外的にこうしてますって話になるじゃん。そんなの意味なくねぇ?例えばさ、現場でなんでもいいからさ、一つのことを徹底的に話し合うとかさ、それをすることで、生活が少しでも潤うかってことが起きたらいいんだけどね。壁にぶち当たったら、話し合うでもいいし、横からすり抜けてもいい、なんでもいいから前を向いているっていうか、そんな習慣が当たり前にできるといいね。何をやったかの量じゃなくてさ、その質だよね。その質をとことん追求できたらいいな。そこなんだよなぁ〜、俺がやりたいのは^ ^

Naoto

07:34 | 記事 nao [コメント:0]

【なんのため?】

2018年10月11日 | 未分類

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なんのため?

あのですね

ふと思ったのですが

「その取り組みはなんのためにしていることなの?」

つまり、事業所内で行なっている取り組みは、どこを向いているの?何を目的としているの?という事です。

僕のところは、グループホームやデイサービスや小規模多機能やサ高住などの在宅サービスと言われる事業を営んでいます。

基本、本質、前提、いろんな表現があるのでしょうが

そこを利用している時の心地よさ、利用している方々の幸せを追求することが究極の目指す姿として大切にしています。

ここが大切なところでもあり、複雑なところなんですが、その中には、その人が、介護保険サービスを利用していない時の姿、いわゆる自宅若しくは在宅での、専門職が関わっていない、目にしていない時の普段の生活が心地よく、快適に過ごせているか、又は一人ひとりの有する能力に応じ自立した生活を営めるように暮らしているのかも含んだ支援の展開だと思うのです。

だがしかし(駄菓子菓子🍭)

それぞれの事業所内でやっている事、つまり取り組みや経営戦略の追求や紹介が多いように感じられるのは僕だけでしょうか?

なんか違和感を感じるのです。

本来は、事業所の取り組みは、一つの方法や道具やきっかけであって、彼らが生活の中心やメインに置いている暮らしの本丸でどう過ごせるかに重きをおいて、デイサービスの利用を考える、小規模の利用を考える、グループホームの利用を考えるというスタンスでなければならないと思います。

だから、今のこの業界のように、取り組みだけが注目されるのではなくて、介護保健サービスを利用している住民(国民)が、住み慣れた地域又は、これから住もうとする新しい地域、すなわちどこに居を移したとしても、生き生きと暮らし続けることができているかに注目されることを、僕は目指したいですね。

そういう追求の紹介がされると、僕らの仕事の素晴らしさや誇りや名誉や守られ、介護を担っている仲間たちの地位の向上や社会的にも認められる仕事になってゆくと思うんです。

僕たちの目指す理念と方向性と哲学を誤らないようにしなければと自戒しています。

Naoto

08:58 | 記事 nao [コメント:0]