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【寛解】

2019年03月09日 | 未分類

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ちょうど50歳になる年に
ネフローゼに罹患した
耳慣れない病名だった
一般的には子供が多くなる病らしい

腎臓の病らしい
完治しないらしい
言葉で表現すると
“完治”ではなく“寛解”までだという

あまりにも突然だった
透析寸前だったらしく
結局約3ヶ月の入院となった

仕事は全てキャンセル
多くの皆さんに
ご迷惑をおかけした

前々日にキャラバンメイトで
しゃべっていた(笑)
当時の道の課長と将来の認知症施策を
語り合っていた(笑)

そんな僕の身体は
本当はそんな状態ではなく
悲鳴をあげていたのだ
僕はまったく気づいていなかった

周りにも迷惑をかけたが
一番申し訳なく思ったのは
自分自身に対してだった( ; ; )

それからずっと
プレドニン(ステロイド)を服用している
かれこれ7年になる

徐々に少なくなる薬の量に
喜んでいたら
昨年再発した
調子こいていたわけではないが
気が抜けない病気だと思った

そのためか
顔や体の浮腫みは
なかなか引かない

久し振りに逢う人には
必ずと言っていいほど
“太ったね”と言われる
それは仕方がない

初めはその言葉を聞くたびに
イラッとしている自分がいた
“好きで太ってんじゃねぇ〜よ”と
腹の中で悪たれをつきながら
つくり笑顔で冗談を言って
一所懸命に繕っていた
要はいい人を演じてたってわけだ

最近はだんだん慣れてきて
別にあまり感じなくなってきたが
人によっては
腹が立つときもある

外食が多いにもかかわらず
体重を維持し
体調も安定しているが
たま〜に“疲れた”と感じる時がある

病気がきっかけという訳ではないが
いいこともあった
奥さんが仕事の休みには
遠くからバスに乗って
見舞いに来て看病してくれた

その間
ゆっくり愛を育むことができた
と勝手に思っている

最近もだんだんと忙しく
自分の身体に
やさしくなくなってきている
だから休みを入れた

この日は奥さんも休みをとり
デート❤️の約束をした

デートと言っても
映画を観て
Costcoで買い物をする
そんなごくごく日常のこと

そんな当たり前なことが
僕らにとっては
めっちゃ嬉しいのだ👍❣️

もうすぐ孫が生まれる
宮崎家にとっては初孫
なんとも嬉しい奇跡が続く

“身体が資本”というが
本当に実感している
有り難いことだと
心から感謝している

僕は
ネフローゼの宮崎さんではない
ネフローゼの前に宮崎さんだ
宮崎さんにネフローゼがくっついて
生き方に気をつけてなくては
いけなくなっているだけ

何度でも言う
僕は
ネフローゼの宮崎さんではない
ネフローゼ?上等じゃねぇ〜か!
残りの人生付き合ってやるよ!

Nao

07:44 | 記事 nao [コメント:0]

【”の“から”と“へのススメ】

2019年03月08日 | 未分類

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僕は認知症の状態ではありません。ですから、認知症の状態の方の気持ちは解りません。でも、そんな僕にでもやれることがひとつだけありました。それは、解ろうとすることでした。でも、いつまで経っても解らないという現実も感じています。世の中には、”認知症“と”人“を解ろうとするための知識や技術と、それを支えている人たちの心で溢れています。そのどれもが正解ですし、本当のことなのかもしれません。しかし正直なところ、僕にも何が本当のことなのかは解りません。解っているのは、その状態にある人にだけで、それこそ一人称の感性の中に答えがあるのだと思います。つまりは、一人ひとり違うということです。それは、僕と皆さんが違うのと同じように、この地球上に空気があるのと同じように、ごくごく当たり前のこととしてそこに存在しているだけです。ですから、その人のことは、その人にしか解らないのです。あの人のことは、あの人にしか解らないのです。ましてや、混沌とした世の中ですから、自分自身のことですら解らなくなってしまう時代です。”痴呆“から”認知症“へ呼称が変わっても、今度は“認知症の人”と一括りにしたり、されたりする文化は、今もなお続いていると感じています。未だ、“人”の前に“認知症”を置いて、認知症というフィルターを通して“認知症の人”と言っていること自体に、僕は違和感を感じています。よく研修会で「もしあなたが認知症になったら」という設問を投げかけて考える機会があります。僕であれば、真っ先に“認知症の人”という呼称、呼び方を止めましょうと、異論を唱えますし、たとえひとりになっても、訴え続けるでしょう。“僕の前に認知症はなく、残念なことですが、僕の後に認知症があるだけです”と言い続けるでしょう。何度も申し上げますが、僕は、“認知症”の前に”宮崎直人“です。ただ、「僕には認知機能が低下してゆく原因疾患を持ってしまい、僕が一番困るのは日常の生活に支障をきたしてしまうという状態と、そのことに対するストレスと不安が生じてしまうという状態なんです」と、言えたら言うでしょう。この世界は、少数派を排除しようとする傾向があります。そこに立ち向かう気は毛頭ありませんが、介護職のみならず、家族や支援者、医療関係者、研究者、さらに当事者までもが、自分たちのことを“認知症の人”と表現していること自体、違和感を感じてしまいます。ですから、原因疾患に伴って、僕の認知機能の低下が進み、あまりうまく言葉が発せられなくなった時に、私のことを“認知症の人”と表現したり、みたりする人が、僕に入浴を進めてきたとしたら、きっと拒むでしょう。そして、その人は僕に“入浴拒否”とレッテルやスティグマを貼り付けるのです。そして僕が”家に帰りたい“と言っただけで、“帰宅願望”とか“帰宅欲求”などと問題視されてしまいます。残念ながら、まだまだそのスティグマは存在しているのは事実です。“認知症”と“人”のCAREとケアとは、一人ひとり違うものですし、彼らとの体験的な関わりを通じて感じていくしかないと感じています。申し訳ないですが、都合のいい時だけ“人として”を主張し、都合が悪くなると“認知症”を前面に出してくるのは、何か本質が歪んでいるように思いますし、矛盾しています。歪みも矛盾も全て受け入れて、これからのことを考えていくことができればと思います。何かの取り組みに異論を唱えるのも自由ですし、色んな考え方があって当然ですし、基本的に僕は全てを尊重します。ですが、その前に”認知症の人“と言っている事自体に偏見を感じない人や社会の感性と感覚に、目や意識を向けた方がいいのではないかと、自省も含めて世に問いたい願いでもあります。ですから、基本、当たり前に“認知症の人”と一括りにする文化ではなくて、“認知症”と“人”を別々に捉え考えてゆく文化に変えていかなくてはいけないし、是非当事者からも発信して欲しいとの願いでもあります。
“の”から“と”へのススメです。これが、ここ数日間に僕の中で起きた心境であり、これまでもずっと伝えてきたことですし、これからも変わらず伝えていく大切なことです。

10:21 | 記事 nao [コメント:0]

【ホリスティック(包括的)にささえる】

2019年03月08日 | 未分類

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身体と心、社会、環境、魂は
本質的なところで
互いに信頼し支え合っています
ホリスティック(包括的)に
捉える支援を大切にすること

アウルの会社名は
“グッドライフ”

この会社の名前の由来は
妻とドライブ中に

「自分たちの最後の最後は“いい人生だったね”と、お互いに云え合える生き方をしようね」

という会話の中から
生まれました

身体と心、社会、環境、魂は
本質的なところで
互いに信頼し支え合っています

人間は
身体・精神体・感情体の
3つで成り立っている
と考えると

このバランスが
何かの要因や誘引によって
ズレが生じた場合に
人は様々な違和感を感じます

自分の人生に
このバランスが崩れるような
何かが起きた時に
大切なことは

ホリスティック
いわゆる包括的に
暮らしを捉え
そのバランスを考えた
関係や支援をし合うことです

その時「いい人生だったね」と
云え合えるといいなと思います
そんな人生を大切にしたいですね

Nao

07:47 | 記事 nao [コメント:0]

【人の感情に目を向ける】

2019年03月07日 | 未分類

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認知症そのものを介護する
というよりも
その人の心の中にある感情を
癒すことに目を向けること

人は基本、感情の生き物
今はかなり落ち着いたと思いますが(笑)
“喜怒哀楽”の感情が
すぐに顔にでる方です

前の上司には
よく“口がとんがってるよ”
と言われてました
笑いますよね

若い頃は
とんがってていいんです(笑)
そのとんがりが
沢山の経験を体験します
その繰り返しで
いい味が出るんです

ですから振り返ると
“失敗と笑いの連続”を
無意識に繰り返して
自分を発達させてきて
なんか知らんけど
まろやかになってきてる?
そんな実感を
楽しんでいる感じです

認知症の状態にある方々は
その状態によって
さらに不安な状態に
さらされるのではないだろうか?
と思い

その前提が
これまで彼らの感情に
働きかけることを
基本にしてきた理由です
それはこれからも
変わらないと思います

仕事の“基本のき”ですから
ひとりの人間の感情を
まずは最優先に癒すような
自分づくりに挑む人が
増えるといいなと思います

目線や視線を合わせるとか
そんな技術的なことではなくて
人の感情に目を向けること
出逢った時の“基本のき”です

人になんと言われようとも
僕はこれからもそうするよ

Nao

07:29 | 記事 nao [コメント:0]

【注文を間違える料理店 at 厚生労働省に参加して】

2019年03月06日 | 未分類

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僕は、昭和63年、今から30年ほど前にこの業界で仕事をするようになりましたが、その当時は、大きな建物に認知症(当時は痴呆症)の状態にある方々を入所(当時は措置で行政処分)させられていました。

若くして若しくは高齢となって、認知症の状態になってしまった方々が、電子ロックで施錠され、常に監視カメラで管理された施設で生活されていました。

居室は4人部屋、当時社会問題となっていた“徘徊”に対応すべく、回廊式の廊下、立ち上がり歩き疲れて転倒、その転倒のために身体拘束、排泄は布オムツでオムツ交換の時間までそのまま。汚れたオムツのままでいると、人間本能で気持ち悪いと感じます。その気持ち悪さから逃れようと、自力でオムツを外すと、不潔行為だの、オムツ外し行為だのとレッテルを貼りました。手についたウンコをどう処理していいかわからないの、壁やカーテン、衣類などそこら中で拭うと、今度は弄便行為と名付け問題行動とされました。入浴は、男性女性に関係なく、人間を洗う感じで芋洗状態で次から次へと流れ作業でした。でも、決してその当時の寮母さんや寮父さんたちに悪気があったわけではありません。その当時も一緒懸命にCAREとケアを考えていたのは事実です。そんな時代が、ついそこの時代まで行われていたのです。もしかしたら今でも行われているかもしれません。

宅老所やグループホームの取り組みが、認知症と人に効果があると紹介されるようになり、認知症と人を取り巻く環境がガラリと変わっていきました。その時代からのスティグマなのか、今でもその前提は変わらず、“注文を間違える料理店”と命名すると、その言葉だけが一人歩きし、当事者からは間違えようと思って間違えてんじゃないとか、“間違える”という文言の良し悪しに焦点が当たり、本質が伝わっていない気がするには僕だけでしょうか?

例えどのような状態であっても間違えてもいいじゃないですかという寛容な社会を目指そうとやってるだけで、認知症の状態にある方々を晒し者にしているわけじゃないですよ。確かに、誰一人として間違えようなんて思わないわけで、彼らは一所懸命に与えられた仕事をしていました。そのサポート役として、黒子としてサポートスタッフが支援する関係が大切であり、さらに有する能力に応じて彼らの力が発揮されるように、お客様とのコミュニケーションの中で自然な人間関係や頼まれた事への修整ができて、彼らが間違いをすることはほとんどありませんでした。どちらかというと、サポート側がてんやわんやになって、僕なんかは、別なテーブルに料理出しの指示を出し、間違いをしてしまったのは間違いありません。

人は、認知症であろうがなかろうが、間違いをします。僕なんか間違いだらけの人生ですよ(笑)それでも寛容な人たちに支えられて生きていることを考えると、その間違いを、認知症だからとか、発達障害だからとか、責めるのではなくて、すでにわかっている理解の元に、共に暮らす寛容な社会を目指そうやって、言っているだけです。厚生労働省でやることに意義があるじゃないですか。誰かがどこかで、自分にはない発想とアイデアで、社会に影響を及ぼすような取り組みをしたことに対して、仲間同志尊重こそあれ、批判や批評の対象ではないですよ。お互いのそれぞれの趣旨や目的を理解し逢い、共に社会を前に進めようとしているだけだと僕は、その現場に居て思いました。

今回の注文を間違える料理店にお手伝いとして参加させて頂きましたが、彼らの有する能力が発揮されるようにサポートされ、しっかりと仕事をこなし、お給料をいただいている姿を見られて、これもひとつの在り方なのだと、自分の枠がまた広がりました。

認知症?上等じゃねぇ〜か!
注文を間違える?だからなにか?
くらいが丁度いい^ ^

ありがとうございました。

Nao

09:22 | 記事 nao [コメント:2]

【注文を間違える料理店 at 厚生労働省】

2019年03月05日 | 未分類

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【注文を間違える料理店 at 厚生労働省】

昨日と今日と東京へ出張でした。“注文を間違える料理店”がのお手伝いに行ってきました。

3月4日、お昼の部と夜の部の2回のフードスタッフとしてお手伝いさせていただきました。

なんと場所は、厚生労働省の26階にあります“龍幸”という中華レストラン。

夜に部のお客様には、厚生労働省大臣、副大臣、自由民主党厚生労働部会長の小泉進次郎さんもご来店され、とても和やかな雰囲気で食事をされていました。

スタッフの皆さんは、大臣さんたちとステキな会話を繰り広げ場を和ませてました。
なんと!小泉さんの神対応でドサクサに紛れてツーショットもいただきました。

スタッフの皆さんは、皆さん認知症の状態にある方々ですが、それぞれに有する能力に応じて、サポートスタッフの支援のもと、しっかりとお仕事をされていました。彼らは、一般社団法人注文を間違える料理店と正式に雇用契約を結んでおり、お給料も支払われる雇用関係になります。

こうした運動を通して、少しづつ
社会を動かしていこうという理念に賛同致します。

取り急ぎ報告致します。

宮崎直人

11:35 | 記事 nao [コメント:2]

【自分軸と他人軸】

2019年03月05日 | 未分類

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自分軸と他人軸

ひとつ失敗したら
ひとつ自分の正義を
棄てるといい

ひとつに的を絞れば
いつか答えに導かれると
信じるといい

人間失敗した分
心が豊かになれる
そんな自分感を信じてみる

人間集中した分
確かな答えに導かれる
そんな自分軸を信じてみる

自分に宿題を出している
他人のことはどうでもいい
自分軸で生きてみる

例えば
今朝のホテルの朝ごはん
座席は2人がけの席と
複数座れる席がある

普段なら2人がけを
選ぶところだけど
居心地のよさを優先

自分がホッとする席を選び
複数がけの席に1人で座ってみる
気持ちがいい
なんとも言えない心地よさ

ホテルに泊まった時の朝食は
たっぷり1時間以上は
かけるようにしている
だから居心地の良さは
最優先事項

あのね自分を豊かにするも
不愉快にするも自分次第
人にせいにするも
社会のせいにするも
全部自分次第
どいつもこいつも
批判ばっかりの社会は疲れるね

否定ばかりされてきた人間は
文句ばかり言うんだろう
まっそれも
魂の経験だから仕方がない

そう考えたら
あまりそこに焦点されない
自分に気づく

自分軸で生きるか
他人軸で生きるか
選択はいつも自分にある

Nao

08:14 | 記事 nao [コメント:0]

【他人はどうでもいい】

2019年03月04日 | 未分類

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他人のことはどうでもいい

僕の思惑通りでした。
昨日の入試、正直めちゃくちゃでした。これが今のおいらの実力なんだと思い知ったというか、自覚していましたが、今流行りの“ボーッと生きてんじゃねーぞー‼️”と、ツッコミをいれたくらいです(笑)

時の流れは残酷でした。自分の能力と向き合った、90分でした。恥も外聞もなく“ようやった”と自分を褒めてあげたいのですが、なにぶんめちゃくちゃだったので、褒めるどころか、めちゃくちゃ凹みましたし、先生方にどう思われるばかり考えて、体を小さく丸めて震えている子供のようでした。ジジィのチャレンジとしては申し分ないし、ようやったよと自分を褒めて誤魔化しました。

もう、現実を突きつけられたら、結果はどうでもいいのです。歳のせいだし、物忘れもハンパないし、もうジジィだし、そのままネガティブでいこう!って、何度も何度も言い聞かせながら、その足で出張に出かけました。

道中、ずっと悶々とした時間を過ごし、自分の心の内を探っていました。でもやり切れなくて、自分の中で何度も何度も、沸き起こってくる変な気持ちに、なんか決着をつけたくなりました。

正直に言うと、自分はたいしたことないのに、その反面周囲から凄い人と思われていると思っている。自分は凄い人なんだという思いもあるから、筆記試験に出たような問題くらい知らないなんてどう思われるだろうかとか、自分の能力の無さがバレるのが怖くて仕方がないといった感じが、気持ちとして湧き出てきてるのです。

もっと突き詰めて探ってゆくと、純粋に研究したいという想いよりは、この歳と、この立場で大学院に行くことで、周囲の人にさらに凄い人と思われたくてと思われたいという想いがありました。

つまりは、僕は、自己肯定感が低いくせに、自己顕示欲がなまら高い人間なので、この度の出来事で、改めて徹底的に自分というものの内面を思い知らされ、悟らされた感は否めません。その自覚もあります。それをあえて自分で選び取りに行ったわけです。人間って面白いですね。

結論は、自己肯定感の低さと自己顕示欲の高さのギャップが、自分を苦しめていたということです。結局のところ、両者の向いている方向は他人で、僕の中心の軸は他人軸だったということ。

僕の思惑は、もういい加減、自分軸で他人はどうでもいいし、自分がどうしたいかで決めていけばいいということを、この受験で明らかにしたかったわけです。ですから、この投稿をしました。

なんだか、今回の入試事件でまた一皮むけたような感じですわ。これ以上むけたらどないしましょ。まだまだむく皮があるような気もしないでもありませんが^ ^
あははははは(笑)

08:56 | 記事 nao [コメント:0]

【ブレブレでいい】

2019年03月03日 | 未分類

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一日一投稿を続け
数えると
かれこれ今日で
220日になっていた

メッセージを発信し続けて
随分となるなぁと
ふと思ったから

当初は
特定の相手に
今は日々感じていることを
認(したた)めているだけ

特に目標や目的はない
世の中は
やれ理念だの夢だの
目標だの目的だのと騒がしいが
ここにそれはない

時折
誰かや何かを思い浮かべ
感じたことを
認めることはある

僕にとっては
日記のようなもので
心の整理ができる

もし認めたものが
流れ弾となって
誰かの感情にあたることもある

それはそれでいい
人間生きていると
誰かや何かと繋がる瞬間がある

鎧を着て
メッキを塗ったくり
本当の自分を偽り
カモフラージュしていても
側から見たらバレバレ
そんな自分だった

そんな自分を
認め受け入れると
とっても楽ちんになる

苦しくはないし
悲しくはないし
怒りもわいてこない

それで生きていこうと
決めた途端に
不思議と心が穏やかというか
心が平静、平常、平和、平穏
平凡、明星(笑)

その繰り返し
登ったり降ったりの繰り返し
そうやって自分の軸が決まっていく

ブレていいし
そう簡単に“ブレない自分を!“
なんて頑張ることはない
ブレてもいい

なんでもいいんだ
”ブレブレをブレない“とか
なんでもいいんだ
”身近な何かを続けてみる“とか

ほんと何でもいいんだ

07:14 | 記事 nao [コメント:0]

【ぶつかるということ】

2019年03月02日 | 未分類

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ぶつかるということ

ぶつかるって
怖いんだよね
ほんと怖い

ぶつかったあと
大丈夫だべかとか
考えちゃう

でもねやっぱり
お互いの想いを伝えないと
なんも始まらないし

どんな形であっても
伝えることは
大事だなと思う

できれば
本音も伝えることができたら
なおいい

本音は
自分の言いたいことを
感情のままに伝えることではなく

本当は勝手に
こんな気持ちなってるってことを伝えるだけでいいんだ

それはもしかしたら
誰にも知られたくない
恥ずかしいことかもしれない

情けなくて
弱々しくて
笑われることかもしれない

本当の自分の気持ちって
誰にもバレないように
覆い隠しているものだから

自分ですらわかない人が多い
ましてや言葉にするなんて
なかなかできるもんじゃない

だから
本当はね
お互いにそこができるといいなって

そうすると
この世界から
争いはなくなる

だって
お互いの正しさの
ぶつかり合いじゃなくて

お互いの
弱みを
告白するんだもの

人は変えられないよ
でも
自分は変えられる

みんなが
そうやさしくなれば
正しさや争いがなくなる

みんなが
そう望めば
暴力や貧困がなくなる

いつか
そんな世界が
創造できるといい

07:15 | 記事 nao [コメント:0]