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【自分に嘘がないのは楽】

2018年09月21日 | 未分類

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自分に嘘がないのは楽

僕には、大切な人がいます。

いつも身近に居てくれて、そうか、そうかと、ただひたすらに話を聴いてくれる人がいます。

そのお陰で、今こうして安心していられます。

その気持ちは、言葉に出来ないくらいの想いです。

言葉にするとなんだか安っぽくなってしまう気がします。

それでも、一言で表現しますと

「ありがとう」の言葉以外、心当たりがありません。

二度目に彼女と出逢い、心に決めたことは

「添い遂げよう」でした。

この人には嘘をつけないと思える人や何かがあると、人は強くなれますし、優しくいられますね

Naoto

07:36 | 記事 nao [コメント:0]

【自分を地底的に肯定した方が人生うまくいく】

2018年09月20日 | 未分類

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自分を徹底的に肯定した方が人生うまくいく

全肯定だね

いいことも、そうでないことも

ぜ〜んぶひっくるめて肯定するの

例えば

いい人だねって言われて、本当は内心そう思っているのに(笑)、そうだよと肯定すると、「なんだこいつ」って思われるんでないかとか思ってしまう、そういうやつ。

そんな時は、「ありがとう」でいい。「いえいえそんなことないですよ」とか言っちゃって、逆に言われた相手に、「あなたの方こそ素敵ですよ〜」なんて、「こそ」を使って何気に自分を肯定しながらも、心にもない?(笑)社交辞令を言ってしまってる時がありました。

今まで沢山あったなって(笑)

これがまた、習慣になってて、つい言ってしまう(笑)

これ癖です

と言うことはですよ

要は、別な習慣で癖つけちゃえばいいわけですよ

例えば、「凄い人ですね〜」って言われたら

「はい🤚ありがとうございます^ ^」って、爽やかに肯定しちゃえばいいの

それでもですね

肯定って、何もいいことばかりを肯定するだけじゃなくて

この間なんか、仲間が僕を気遣ってくれて、「色々と走り回って大変ですね。疲れてないですか?」って労いの言葉をかけられたんですね。

その時の私の反応は、「うん。疲れる⤴︎」って、少しテンション高めで、笑って応えたんです。

すると、「そうですよね⤴︎」って少し複雑そうでしたが、冗談っぽく明るい雰囲気にして、さらに最後に「でも大丈夫!」と付け加えて治めると案外もっといいかもしれません。

まっ、これは、ある程度人間関係が出来てないと出来ませんけどね(笑)

単純に肯定すると言っても、色々ですけど、ストレスだって、その全てが悪いわけじゃないのは、すでに世界的な研究でも証明されますし、何でもかんでも否定していては、前に進めませんからね。

出来れば楽しく自分で工夫して、物事を肯定してみるのも、人生を豊かにするスキルかなと思います^ ^

Naoto

08:43 | 記事 nao [コメント:0]

【夢をみた】

2018年09月19日 | 未分類

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夢をみた

お爺さんお婆さんが自分らしく生き生きと生きてゆくということは

ぼくたちが自分らしく生き生きと生きてゆくということと同じで・・・

そもそも本人はどう思ってるんだよ!
自由、自由ってどこが自由なんだよ!
安心して暮らせる社会ってなんなんだよ!
彼らは守られるべき人か?
何かあったらどうするの!
何があったらって何があると言うのさ!
死んだらどうすんのさ!
責任とってもらうからね!

そんな赤裸々な掛け合いが飛び交い、誰かと熱く言い合っている夢でした。

多分、自分の中にある沢山の葛藤が夢に出てきたんだろうなと。

目が覚めて

夢だったかと少しホッとしました。

人間として、自分も、家族も、社会も、全て、それぞれの責任において生きるという大前提に立って考えられるといいなと思いました。

人間が目指す社会は、奪い合わず攻め合わず、分け合う社会だといいなと。

人類の崇高な目標だと思いますが、未だに責任を求め合い、押し付け合い、人のせいにしている世の中。

宇宙物理学者の佐治晴夫氏の「これからが、これまでを変える」の名言どおり、今を真剣に生きんとなぁと、あらためて心に誓いました。

それには、いろいろとありますが、今自分に出来ることをするに尽きます。

前にも書いたことがありますが、ぼくの中には、仮面ライダーもいるし、ショッカーもいます。お互いに手をとり合って、自分に正直に今しかない今を生きる〜って、自分の中で闘いながら生きているような気がします。

どんな状況でも、どんな状態でも、どんな境遇でも、シンプルで、ベーシックな自分に立ち還れるといいなと思います。

Naoto

07:13 | 記事 nao [コメント:0]

【いいんだよ我慢しなくったって】

2018年09月18日 | 未分類

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いいんだよ我慢しなくったって

いいんだよ無理に笑わなくたって
いいんだよ無理に喜ばなくたって
いいんだよ無理に楽しまなくったって

ここは母なる地球なんだから

いいんだよ無理に泣かないようにしなくったって
いいんだよ無理に耐えようとしなくったって
いいんだよ無理に怒らないようにしなくったって

ここは父なる地球なんだから

あのね

ぜんぶ大丈夫の上に在るんだから我慢しなくったっていいんだよ

Naoto

07:33 | 記事 nao [コメント:0]

【大丈夫についての考察】

2018年09月17日 | 未分類

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私がフォローしている水野浩志さんのPostより

『※※ビジネスの視点から考える「何があっても大丈夫」という考え方をもっていた方が絶対に良い理由※※』(私のFacebookでシェアしましたので興味のある方は、お読み下さい)

その投稿を読んでインスピレーションを受けた私なりの『大丈夫』についての考察を書いてみました。

〜大丈夫についての考察〜

「よく大丈夫という人は、大丈夫じゃない人だ」

と、深いい言葉として紹介されますが、私にはいつも違和感がありました

実はそう言う人や、そう言われて納得している人の多くは

いい結果しか期待していない人の大丈夫であって、上辺(うわべ)の大丈夫しかみていない人が多いのではないかと感じます。

私の考える「大丈夫」は

いい結果であろうとも、例え悪い結果(本人が望まない結果)であろうとも、そのどちらが起きても、その全てをまず認めるという「大丈夫」という意味です。

そう捉えると結局、前を向いて次を考えられる「大丈夫」という姿に繋がっていきますから、いつも自分に正直で嘘偽りのない姿で、どんな困難にも向き合っていけます。

しかしその反面、「よく大丈夫という人は大丈夫じゃない人だ」と言う人や、そう言われ納得している人は、いい結果しか期待していない「大丈夫」であって、それ以外は、「大丈夫」じゃないということだから、それこそ「大丈夫ではない現実」を引き寄せてしまうことになります。

そうなると、その現実を体験しますから、いつまでたっても恐怖や不安の中にいて、前を向けずにその現実を繰り返す事になり、さらにその気持ちや状態を隠そうとしますから、自分を偽ったり、装ったり、自分に嘘をついて「大丈夫」を使うので、それこそ、いつまでも苦しい日々が続くのは当たり前になります。

と言うことは、口先だけの「大丈夫人間」になってしまい、周囲から「本当は大丈夫じゃないんでしょ」「凄いね」「偉いね」「かわいそうな人」「よく我慢してるね」とか同情をもらい続けて生きることに満足を見出す人になってしまいます。

挙句に果てに、同情がもらえなくなると、人や何かのせいにして、自分の敵を創り出し、わけのわからない戦いにのめり込んでいくはめになります。

それが私たちの仕事であるCAREに出てしまうと大変なことになりかねません。

これが大丈夫という意味の、私なりの考察であり、「大丈夫」の捉え方の違いです。

さて、私たちはどちらの「大丈夫」を使いましょうか?

私の心の中には、仮面ライダーもいるし、ショッカーもいます。お互いに手をとり合えばいいのになぁといつも思っています。

私は、以前、自分の名刺の裏に「大丈夫」と印刷していました。その意味の全てが、名刺の裏に集約されています。

私は、自分のいいところも、そうでないところも全てを認め、受け入れた「大丈夫」な姿で在ることを望み、在り続けたいですし、そうしています。

Naoto

07:44 | 記事 nao [コメント:0]

【こんな時は・・・】

2018年09月16日 | 未分類

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辛いことや悲しいこと
苦しいことや切ないこと
人にはそう感じる時があるの
そんな時はジッとして待つの
たまたまそうだから
待つしかないの
大丈夫になるから
いつか近いうちに
きっと大丈夫になるから

泣きたいことや叫びたいこと
怒鳴りたいことや暴れたいこと
人にはそう感じる時があるの
そんな時は感情を表に出すの
我慢しないで
いい人にならないの
大丈夫になるから
いつか近いうちに
きっと大丈夫になるから

愛しいことや大好きなこと
優しいことや嬉しいこと
人にはそう感じる時があるの
そんな時は想いを伝えるの
溢れる気持ちを
たくさん込めるの
大丈夫になるから
いつか近いうちに
きっと大丈夫になるから

Naoto

10:48 | 記事 nao [コメント:0]

【生きているということ】

2018年09月15日 | 未分類

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生きているということ

人間って、ほんとにやれてることをしている時が一番幸せなんだ

生きている人間一人ひとり

みんな凄いな〜と思う

みんな精一杯に自分を生きているって感じ

どんな自分でもいいんだと思う

どんな感情を抱いてもいいんだと思う

それが自分にとって正直で本当の気持ちだったら

そこを隠すこともないし、偽ることもないし、装うこともない

信じてやり通す

何があっても諦めない

頑固と言われようが

図々しいと言われようが

融通がきかないと言われようが

せっかく生きているんだから自分のやりたいことを思いっきりやったらいい

それが生きているものの使命だと思う

生きているんだから

生きてきたんだから

生きてゆくんだから

自信を吸って不安を吐き出せ〜(笑)

Naoto

07:50 | 記事 nao [コメント:0]

【信じてやり続けるしかない】

2018年09月14日 | 未分類

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信じてやり続けるしかない

剛と柔らかさ
強さと弱さ
動と静
喜びと怒り
楽しみと哀しみ

剛柔あわせ持つ

これら二元性を、常に併せ持ち、いつも隣同士で「どうする?」と声を掛け合っている

そう感じる

人には与えられた道があり、その与えられた道を一所懸命に歩む他がない時がある

特に

逆境に置かれた時
悲しみの底に落ち込んだ時
悩みの渦に飲み込まれた時
暗闇に中で立ち竦んだ時
恐ろしくて身動きがとれない時

どんな時でも

何かを信じてやり続けるしかない時がある

何を信じるかは人それぞれだが、いずれにせよ、やり続けるしかない時がある

ただただひたすらに

野心は自分で終わりますが、志は受け継がれます

今はそんな時かもしれない

Naoto

07:57 | 記事 nao [コメント:0]

【唐突ですが「音」って大事】

2018年09月13日 | 未分類

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唐突ですが「音」って大事

音って大事だなとつくづく思いました
私たちの身近には、私たち自身が出す音として「声」があります
さらに、人間は「言葉」という道具を授かり使います

常々感じることですが、この音と言葉と声の関係がとても大切な働きを持つ仕事が、私たちの仕事ではないかと思うのです

音について調べてみると

音は、おと・おん・ね、といろんな読み方があります

意味もそれぞれの読み方に応じて微妙に異なりますが、とても大切な繋がりを示していると思うので
その全てを繋げてみました

すると

「物が動き、こすれ、また、ぶつかって出る空気の震えが耳に届いて聞こえるもの、または、聴覚への刺激。聞く心に訴えるような、おと、こえ」

となりました

そして、言葉の意味は

「意味を表すため、口で言ったり、字に書いたりしたもの。語、単語や連語、言語」

とありました

この「音」と「言葉」が融合して、人間の機能の声を使って表現します

その時の特徴が「声色」です

さらに声色を調べると

声の音色。こわね。特に、役者などのせりふまわしての音色・くせなどとありました

さらに、音の高さ、大きさ、音色の3つの要素があり、これを物理学の視点から表現すると、音波の周波数、音波の振幅、音波の波形の3点になるそうです

さらにさらに人間にはここに感情が加わります(笑)

厄介ですな(笑)

そうなると、音、言葉の融合が化学反応を起こして、声という音に変化させ、お互いに伝え合うことになります

何を言いたいかと申しますと

言葉はそれぞれに誤魔化すことはできるかもしれませんが、言葉に音が加わり、声色(こわいろ)への変化は、誤魔化すことができない、その人間の本音が現れるということです

この声色が、人間関係を築いていく上で、本当に大切になる要因かなと思うのです

ですから、メールやSNSなどでは、気持ちを誤魔化せても、電話や直接会って会話したり、直接声を聞いたりすることを通しては、人の気持ちは誤魔化せないということですね

最後に、私の尊敬する理学博士(理論物理学)の佐治晴夫先生の言葉をご紹介します

『お互いに自分の気持ちを表現する方法の中で、一番根源的なものは、言葉でもなく、文字でもなく、音だったのです』
(「14歳のための時間論」春秋社 佐治晴夫より)

Naoto


07:08 | 記事 nao [コメント:0]

【「想い」の納めどころ】

2018年09月12日 | 未分類

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ここ数日思ったことは

支援する者、支援される者
支援したい者、支援されたい者
そして
支援されたくない者

こういう時は、色々な想いが交錯しますね

厚真の「グループホームえがおの家」に、最初に状況を伺いにいった時の事でした

理事長と僕が外で話をしていると

お爺さんと職員さんが、車椅子にポリタンクを数本乗せ、その車椅子をお爺さんが押して、どこかへ出かけようとしていました

理事長「まだじゃないかい?」
スタッフ「早めに行ってきます」
お爺さん「(笑)」
理事長「まっいいか」
理事長と僕「行ってらっしゃい。お願いします」

と、テクテクと給水所に出かけて行きました

地震が起きて、2日後の光景でした。すでに、不自由な生活に順応しようと、入居者の方と共に生活を組み立て、適応していこうとする姿に人間の逞しさを感じました。お爺さんは、常にニコニコ顔でいい顔に見えました

人間の生活には、生きてゆくために何かしらすることがあって、出来れば主体的に出来ることであればいいのですが、彼らの弱さはそこにあって、そこを職員さんが支援して、その方の主体性を引き出している

そんな何気ない光景でしたが、とても印象に残っています

時に、支援しているつもりが、その関係が逆になって支援されている、「するされるの関係」を超越した関係になってゆくんだろうと感じました

支援とは、必要なことを、必要なときに、必要な分だけ行うことだとすると、僕たちの普段の生活の支援はどうだろうと考える数日間であり、時間にもなり

その時のお爺さんの「想い」はどうだったんだろうと思いに耽ました

Naoto

07:24 | 記事 nao [コメント:0]