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『ちょっとためになる話』

2016年10月14日 | 未分類

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ちょこっとためになる話?

人と関わってゆく時に

一番大切なことは

いい間柄を意識して「かんしん」を寄せることなの

「かんしん」って書いたのはね

日本語は読み方は同じでも漢字で書くと意味が違ってくるから

「かんしん」にはね

「関心」「感心」「歓心」ってーのがあって

僕は3つの「かんしん」って言ってるんだ

「かんしん」の漢字を調べていたら

「感震」ってのがあって

これも僕らの仕事にもあるなーって感じた

感じて震えるって書いて「感震」

その他にも色んな漢字があったので

「かんしん」に関心のある方はどうぞ辞書を引いてみてね

では本題に

3つの「かんしん」って言うと

なぁ〜んだ知ってるよって思うと思うけど

これが一番難しいし緊張する瞬間だね

人と人とが出逢った時に印象ってあるよね

そこが大事なの

そこさえクリアすると

関係の構築の半分はOKだね

普通相手にいい印象を与えようと良く見せようとするけど

それは逆効果だね

なぜかって言うとね

相手の関心は

「私のことをどう思っているんだろう」とか

「私の何に関心かあるのかしら」とか

基本自分のことを考えてしまうんだ

つまり自分へに関心の度合いが気になる

だからそこに関心を寄せて

相手が感心し出したら歓心に変わって感震するんだ

だからまずは相手に興味を持つことだ

自分を良く見せる前に相手に興味を持ち関心を寄せることからスタート

やってごらん

すぐには感震は来ないかもしれないけど

継続はなんとかって言うだろ

まずは出来るところからでいいんだ


今日の写真は、昨日娘と一緒に中華屋さんに行った時の

海鮮五目チャーハン‼️ 最高だったぜ(^^)

nao

09:00 | 記事 nao [コメント:0]

『なんかいい‼️』

2016年10月12日 | 未分類

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奥さんとの会話

「色々あるね」

と僕が言うと

「みんな一所懸命に生きてるんだね」

と返ってきた

なんかいいでしょ〜〜〜

惚気でした

人はね

ミスしたことない人なんかいないんだよ

みんな一所懸命生きてんだよ

それでいいんだよ

そこのキミ‼️

クヨクヨすんなよ‼️

大丈夫‼️

こんなブログでもいいっしょ^_^

nao

写真は高知でご馳走になった「うるめの干物」

なまら美味かったです(^^)

22:19 | 記事 nao [コメント:0]

『仲間に感謝‼️』

2016年10月11日 | 未分類

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こうして色々なところにお邪魔していると

出逢う人から

全国飛び回ってる感があるんだろうなぁ

「全国回ってると〇〇県ではどうなんですか?」とか聞かれる

でもね

行ったことないんだわ そこ

ってことがよくある

周りから見ればそんな感じなんだろうなぁって感心した

今日は北海道さ帰るだけ

高知の仲間が

帰る前に桂浜の龍馬さんの銅像のところにつらて行ってくれるというので

今からワクワクしている

憧れに龍馬さんにやっと逢える

この仕事をしていて

有難いと感じる瞬間だ

今回も沢山の仲間とめぐり合えた

沢山のご配慮に感謝

それにしても早く家に帰りたいなぁ

nao

06:59 | 記事 nao [コメント:0]

『支離滅裂なカミングアウト』

2016年10月10日 | 未分類

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以外と僕は書くことが好きなようだ

自分が考えていることを

活字に置き換えることが好きなようである

だから基本的にブログとかフェイスブックとかに書くことが好きだということが

最近わかった

書くと言うことにおいてはだ

それは

本当にこのことは好きなことか?

と、あえて自分に問うようにしているからだろう

ただ厄介なことがある

それは読み手の反応を勝手に読んでしまうことだ

多分それは異常ではないかとさえ感じる

しかしこのことが僕にとっては

壮大なコントの始まりとなる

ちなみにコントとは

僕の思考の中で起こる、ありもしない壮絶な物語、ストーリーの事を言う

これがまたとんでもない展開を見せる

そうして僕の心と行動までもを支配してしまうのだ

それがあたかも現実に進行しているかのようにだ

そうした一連の流れや

実はありもしないコントなんだと言うことがわかってからは

いたって冷静に自分の創造するコントを楽しむことができるようになったのだ

具体的なコントの例をあげるとこうだ

何か会社の人の仕事のやり方や揉め事のようなことが起こったとする

すると僕に対する他の人の意見や言動や振る舞いや態度が気になりだす

つまり僕に対する周囲のレッテルが気になりだすのだ

「お前は、社長として何をして来たんだ?」

「認知症のことをいいだけ話しているのにお前に現場はうまく行ってないんじゃないか?」

「やっぱりお前は大したことないやつだな」

などなどエトセトラエトセトラである

そのことが僕の脳を支配する

支配された脳は

僕の心を支配しだす

支配された脳と心は

僕の体を支配しようと企みだすのだ

途中で

これではいけない

そんなことはない

そんなはずはない

そんなこと起こるはずがない

などど

思考が行ったり来たり七転八倒を繰り返すのだ

これは経験しないとわからない

挙げ句の果てに

支配された体は

脳と心のままに行動し

自分の本当の気持ちとは裏腹な行動を起こしてしまうのだ

全ては僕の「気のせい」なのだ

その気のせいを感じたくなくて

フェイスブックを止めた

実はやめたと言う表現は正しくはない

本当はやめていない

友達の制限をかけて僕のFacebookは存在する

幼馴染みの友達だけの範囲でやり取りをしている

仕事上の仲間とFacebookで繋がるのをやめたのは事実だ

もっと言うと

他の人の投稿に嫉妬する自分がいたからだ

そう言う醜い自分がいたからだ

そう言う自分を見たくなかったからだ

自分に注目してほしい

自分のやっていることを認めてほしい

もっと「いいね」がほしい

なんでこの人「いいね」くれないんだろう

それは何か俺に問題があるからか?

あの言動が原因なのか?

そもそも俺は嫌われているのか?

などなどエトセトラエトセトラ

そんな感じでコントが始まるのだ

実に面白い

こんなことが以前の僕に起きていたのだ

しかしそんなことをしていても

根本的な解決にはならないなぁと考えていたら

そんな僕もあっていいんじゃね

全てがうまくなんてあり得ないし

もっと言うと

僕の魂のレベルでは

このことを経験する人生だとすると

僕に周りにいる人たちは

僕が生まれる前に

打ち合わせ済みの僕の体験したいことだとすると

僕の人生における起きていた経験の全てが

そしてこれから起こるであろうことも

今起こっていることも

全てが意味あるものになる

だから

「いいね」や人の評価を気にすることも

僕の経験することなのだ

なぁ〜んだ

それだったらいいんじゃね‼️

と楽しめるようになれたのだ

どうだ‼️

凄いだろう‼️

皆さんは私の言っていることを支離滅裂と思うかな?

nao

07:57 | 記事 nao [コメント:0]

『いざ‼️ 高知へ』

2016年10月09日 | 未分類

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おはようございます。

今日から四国 高知県に行って参ります。

四国は、愛媛県と香川県には胃邪魔しましたが、高知県は初めてです。

憧れの坂本龍馬の里にやっと行けます。

では。

nao

09:04 | 記事 nao [コメント:0]

『第40回日本死の臨床研究会年次大会』

2016年10月08日 | 未分類

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今回このような機会をいただき

『死』について考えました

考え抜いたまではいきませんが

そこそこ考えました

そしてある結論に達しました

それは

僕の場合は生命保険やガン保険に入るときに考えるくらいだということ

ちなみに今日これが終わったらアクサ生命に寄ってガン保険に入る予定です

ということで

僕はあまり死ぬということや生きるということに執着してないということに気がつきました

さらになんでだろうと考えました

するとある経験に行き着いたのです

実は僕が50歳になる年に少し大げさですが

生死分け目の大きな病を患ってしまったんです

もう完治しないそうです

寛解という状態にはなるようですが

未だにプレドニン(ステロイド)を飲んでます

そんでもってその時も考えたんです

入院中は考えることくらいしかできないので

この先どうなるんだろうって

色んな不安が襲ってきました

家族のこと

会社のこと

お金のこと

死ぬということ

いろいろでした

その時の結論がこうでした

人はいつか死ぬ必ず死ぬ

どんな死に方をしようが平等に死ぬ

逆に相対的に

今生きているということはいろんなことを謳歌したほうがいいんじゃねという最終的な結論に達したわけです

でもね

生きているということを考えていたら

僕1人で生きているわけではないということに気づいたんです

ですから

離婚していた奥さんと

もう一度やり直すことにしたんです

彼女は命の恩人なのです

そうやってなんだかんだと今生きています

かなり脱線してしまいましたが戻します

僕のホームは

『認知症』という誰かが名付けた状態にある人の、支援を考えながら生活を営んでいるところです

ですから

否応なしに人と人との関わりが生まれます

人と人とが支え合いながら

わけのわからない病とたたかいながら生きているんです

それも治らないそうです

困ったものです

ですからどう死ぬかなんてどうでもよくて

それよりも今この瞬間をどう生きるかを

そしてどう人生を謳歌するかを考えたほうがいいに決まってるんです

ということは

基本的に僕のホームでは

死に対して特別なことはしていません

ただただひたすら生きていることに不快な状態や状況にならないように

みんなで考えて生きているということを支えているだけです

ちなみに僕のグループホームでは

これまで14人の方が命を全うされました

ですから

僕には「こうあるべき」とか「ねばならない」ということはありません

これらが私の考える『死』と『生』なんです

最後に、今から10年前の2006年にDVDを創りました

そこに全てが含まれていますので

見てやって下さい

有難うございました

nao

09:03 | 記事 nao [コメント:0]

『会社は、さっさと辞めればいいと思うのです』

2016年10月08日 | 未分類

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会社は、さっさと辞めればいいと思うのです。
そして、起業してみればいいと思うのです。

そんなに、会社に不満があるなら
そんなに、不満を言うほど自分の仕事に自信があるなら

起業してみればわかるのです。

どれだけ 自分が傲慢だったか
どれだけ 自分が無責任だったか
どれだけ 自分の考えが甘かったか
どれだけ 恵まれ助けられていたか

どれだけ 会社が手厚くしていくれていたか
どれだけ 毎月お金が入ることがありがたいことだったか
どれだけ 自分でやって行くとお金がかかるのか
どれだけ、自由だったか

どれだけ、起業には準備が必要なのか
どれだけ、準備をしても思うように行かないのか
どれだけ、当たり前にお客さんがいたことが奇跡だったのか

そして、
それを成し遂げてきた会社にいられることがどれだけ幸せなことか

起業してみなければ
会社を辞めてみなければ
わからないのです。

今の自分が
どれだけ恵まれて幸せなのか
わからないのです。

そして、いま会社にいる人に
この言葉は響かないのも事実なのです。

だから
会社はさっさとやめた方がいいのです。

やめてみて初めて

どれだけ、自分が必要とされていたのか
どれだけ、自分が愛されていたのか

どれだけ、自分が役に立っていなかったのか
どれだけ、大したことしていなかったのか

全てが明るみに出るのです。

そう、自分の「勘違い」に気づけるのです。
見えなかったものが見えるようになるのです。

そして
不満で会社をやめた人は
どこに言っても何をしても同じ不満を言い続けるのです。

会社への不平不満は
わたしは、変わらないから会社よ変わりなさい、
という傲慢な叫びなのですから

By 心屋仁之助さんFacebookより

08:02 | 記事 nao [コメント:0]

『グループホームにおける人生の謳歌』

2016年10月07日 | 未分類

ファイル 1024-1.pngファイル 1024-2.png

今回このような機会をいただき

『死』について考えました

考え抜いたまではいきませんが

そこそこ考えました

そしてある結論に達しました

それは

僕の場合は生命保険やガン保険に入るときに考えるくらいだということ

ちなみに今日これが終わったらアクサ生命に寄ってガン保険に入る予定です

ということで

僕はあまり死ぬということや生きるということに執着してないということに気がつきました

さらになんでだろうと考えました

するとある経験に行き着いたのです

実は僕が50歳になる年に少し大げさですが

生死分け目の大きな病を患ってしまったんです

もう完治しないそうです

寛解という状態にはなるようですが

未だにプレドニン(ステロイド)を飲んでます

そんでもってその時も考えたんです

入院中は考えることくらいしかできないので

この先どうなるんだろうって

色んな不安が襲ってきました

家族のこと

会社のこと

お金のこと

死ぬということ

いろいろでした

その時の結論がこうでした

人はいつか死ぬ必ず死ぬ

どんな死に方をしようが平等に死ぬ

逆に相対的に

今生きているということはいろんなことを謳歌したほうがいいんじゃねという最終的な結論に達したわけです

でもね

生きているということを考えていたら

僕1人で生きているわけではないということに気づいたんです

ですから

離婚していた奥さんと

もう一度やり直すことにしたんです

彼女は命の恩人なのです

そうやってなんだかんだと今生きています

かなり脱線してしまいましたが戻します

僕のホームは

『認知症』という誰かが名付けた状態にある人の、支援を考えながら生活を営んでいるところです

ですから

否応なしに人と人との関わりが生まれます

人と人とが支え合いながら

わけのわからない病とたたかいながら生きているんです

それも治らないそうです

困ったものです

ですからどう死ぬかなんてどうでもよくて

それよりも今この瞬間をどう生きるかを

そしてどう人生を謳歌するかを考えたほうがいいに決まってるんです

ということは

基本的に僕のホームでは

死に対して特別なことはしていません

ただただひたすら生きていることに不快な状態や状況にならないように

みんなで考えて生きているということを支えているだけです

ちなみに僕のグループホームでは

これまで14人の方が命を全うされました

ですから

僕には「こうあるべき」とか「ねばならない」ということはありません

これらが私の考える『死』と『生』なんです

最後に、今から10年前の2006年にDVDを創りました

そこに全てが含まれていますので

見てやって下さい

有難うございました

nao

23:47 | 記事 nao [コメント:0]

『人の心(気持ち)はわからない』

2016年10月07日 | 未分類

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人の心(気持ち)はわからない

どう転んでもわかるものではない

ということは

自分の心(気持ち)もわかってもらえるわけがない

わかってもらおうと頑張っても無理

そこに時間や力を注ぐよりは

自分が自分に正直で嘘のないように生きることを選ぶしかない

もし決してわかってもらえないだろう気持ちを

わかろうとしてくれる人がいるとしたら

それはそれで嬉しいしラッキーで有難いことだと思えばいい

それでいいのだ

うちらの仕事は

そのことを大前提として

自分をさらけ出しながら

ひたすらわかろうとする方を選んでゆくことなのだ

nao

10:51 | 記事 nao [コメント:0]

『心が先 現実は後』

2016年10月04日 | 未分類

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やるならいましかねぇ と思う

心が先 現実は後 と思う

何を感じる? それが大事

nao

12:56 | 記事 nao [コメント:0]