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『施設長の鏡の法則』

2018年02月25日 | 未分類

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相手が鏡なら

あの人凄いなら自分も凄い

あの人素敵なら自分も素敵

あの人は綺麗美しいなら自分も綺麗美しい

あの人に惚れ惚れするなら自分も惚れ惚れされる

と思う

だとすると

自分が相手に映っているだけ

自信持てよ〜自分^ ^

となると

自分は自分で誰かの鏡にもなっているということになる

自分の心が美しければ美しく映り

自分の心が醜ければ醜く映る

全ては自分が映し出されていると思えばいい

ドブネズミみたいに美しくなりたい

そう

写真には映らない美しさがあるから

08:29 | 記事 nao [コメント:0]

『施設長のフィロソフィー』

2018年02月23日 | 未分類

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振り返るとずっと逆をやってきた感じ

というより

別な捉え方や見方をしてやってきた

アウルを建てる前もじっくり考えて準備万端って言う感じよりも気づいたら行動していた

結局は自分がやりたいとか正しいとかいい状態でいたいとか

そんな感情を優先してきた

そんなことを追求してきた結果今こうなってんだろうと自覚している

世間では当たり前に流れていくような事も

疑ったり
否定たり
鵜呑みにしなかったり
逆らってきた

そのくせぞっこん惚れ込んだら、とことん真似をした

そうやって自分のやり方を紡ぎ出してきた

自分の人生におけるフィロソフィがあるとすれば

「自分の直感を信じて貫く」かな?

そうやって生きてきた

仕事を5回かえたり

結婚と離婚を経験したり

病気して死にかけたり

まぁ〜兎にも角にも色々あったよ

でもね今思うとだけど

その時々に僕を助けてくれる人が現れるんだ

これがまた不思議なんだけれどもそうなのね

だから今思うよ

僕は守られているって

もしここで僕がやっている事がうまくいかなくてやめなきゃなんなくなったとして

もし助けてくれる人が現れたら、もう少しやんなさいということで

もしそうでなかったとしたら、もうやめなさいってことだと思ってますよ

その時はもがき足掻くかもしれないけども、そうだと思って別な道を選ぶと思う

その時は

よくやったと自分に言える自分でいたいと思うな

よくやってるよ自分

よくやってるよみんな

そう思う

13:13 | 記事 nao [コメント:0]

『施設長の体験』

2018年02月23日 | 未分類

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先日、下河原さんにお願いしてVR認知症体験で樋口さんのインタビューを聴きました

樋口さんが言うように

乱視、近視や遠視と同じように幻視を捉えられる社会だといい

僕は老眼

目の状態が以前より変化してくるととても不便

その変化に応じて目の状態をアセスメントしてくれる専門職がいてどうするかを一緒に決めてもらえる

状態に合ったメガネ👓を作って状態に応じてメガネを使えるようにしてくれる

そのメガネを使って何度も何度も見え方を丁寧に調整してくれる

僕たちは時に眼科医であったり

時にメガネ屋さんであったりと同じ役目だと思う

普通に幻視が見える幻聴が聞こえる

本人にとっては何か目に見えない耳には聴こえない状態がベースとなって真理に見え聞こえる

まずはそこを純粋に認めるところから始まる

僕らはメガネ屋さんである

09:20 | 記事 nao [コメント:0]

『施設長のアドバイス』

2018年02月22日 | 未分類

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今となっては

もう何もやれることはないって思うこと

諦めかけたことや諦めてしまったこと

僕にはたくさんあった

でもね最後の最後までやれることはある

今はねそう思える

それはね

ただ在ること

それこそそこに存在していること

人間として生きていることは

大体のことは共通しているから

何でもいいから語りかけてごらん

視線を贈って微笑んでごらん

そこにただ存在してごらん

無表情な人に

まったく喋らない人に

いつも眉間に皺を寄せて怒っている人に

顔を合わせるたびに「帰ります」という人に

病院で抑制されている人に

今生命を全うしようとしている人に

じぶんの感情が癒されるような気持ちで

語りかけてごらん

例え自分の思うようにいかなくても大丈夫だから

自分を責めなくてもいいよ

自分を嫌わなくてもいいよ

あなたの存在の語りかけは必ず届いているから

神様に誓って真理だから

最後の最後にはうまくいくから

やってごらんよ

大丈夫だから

07:02 | 記事 nao [コメント:1]

『施設長の嘘』

2018年02月21日 | 未分類

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あのね

よく認知症の状態にある方へ「嘘」をつくことの善し悪しが話題にあがることがある

なんか嘘をついてる介護職が悪いかのような言い方をされることがある

そう言えば、パーソンなんとかケアとかにも嘘をついてはいけないとか書いてあったなぁ

例えば日本には「嘘も方便」とか言う諺まであるし、いいんだか悪いんだかよくわからん事がよく起きる

でもそれは

嘘をつかなくてもいい関係や状況や状態か
嘘をつかなければいけない関係や状況や状態か
そもそも「嘘」に対しての個々人の前提がそれぞれにどうかによっても違ってくると思う

別な見方をすると

嘘は人間の本能のひとつの姿でもあると思う

つまりは自分や何かを守らなければならない環境や状況や状態に置かれた時

人間は防衛本能って奴を繰り出すんじゃないかと思うんだ

嘘をつくか、つかないかが問題ではないし

嘘そのものが問題でもないと思うんだ

嘘が嘘だったりってこともある

何故かは僕にもわからないけれど

少なくとも僕は両親や今まで出会ってきた大人たちに

「嘘をついてはいけない」って言われて自分を育んだことは間違いないし、それが僕の前提にあるのも自覚している

そもそもどうして嘘をついてはいけないのかにも疑問を持ったことがない

もっと言うと自分自身に嘘をついてることの方がたくさんあるし

嫌になって罪悪感を抱くことだって今までにもたくさんあったしある

それは「嘘をついてはいけません」という前提を信じているからなんだ

だから僕はそこを疑う所から始まると思うんだ

つまりは

嘘をつかなくてはいけないような若しくは嘘をつかなくてもいいような環境や状況を創っていることとそもそも本人が持っている本質的な前提や状態によって変化することに目を向けることだと思うんだ

嘘をつくとかつかないは、あくまでも結果であって手法や手立てに過ぎない

つまり嘘をつくか、つかないかの議論は

嘘をつかなくてもいい、又は嘘をつかなければいけない全ての環境や状況や状態と本人の本質的な前提や状態を紡ぎ出す関係に左右されると思うんだ

さらに認知症の場合は、嘘をつかれる又は嘘をつかれ続けているその状態が放置されることで、その本人が何かを感じるを感じたから起こっていることだと言うことをわからないで起きている事態が不可解だと思うんだ

その関係というのは、直接的、間接的にはまったく関係がなく本人の中で感じてしまうことなんだ

だから僕はいつも思うんだ

本人不在の議論はいつまでたっても平行線で終わると・・・

僕たちはいつも客観的主観で議論している

本人はいつも蚊帳の外って場合が多いね

本人というかひとりの人間の本質的なベースがいつもどこかに置き去りにされているんだ

僕はいつもそこを疑いながら居るようにしているよ

だからいつまで経っても解れないし、逆に解ろうというスタンスというか関係から抜け出せないんだ

それは仕方がないと思っている

僕が認知症の状態になっても多分僕を解ってくれる人は何処にもいなくて寂しい想いをすると思うんだ

でも解ってくれる人ではなくて、解ろうとしてくれる人がひとりでも居てさえくれれば、少しは心癒される光がみえるだろうなぁと想像が出来るし

ましてや相手が嘘をつかなくてもいいような自分で居られると思う

僕のスタンスはそこだし、僕自身の老後の課題かもしれないな

そして

一番悩ましいのは

自分自身に嘘をついていることがどれだけあるかだろうと思うんだ

どうだい?

解ろうとしてくれるかい?

昨日から今日にかけて「嘘」についてずっと考えていたら頭が痛くなったよ(笑)

10:24 | 記事 nao [コメント:0]

『ものの見方捉え方』

2018年02月20日 | 未分類

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僕にある、先入観、固定観念が、先入観、固定観念というフィルターを通してみている

つまり僕のみえる世界は僕の知っている世界を通してみてるってわけね

まっさらな若しくは真っ白ななんにも影響されない客観性などどこにもないと感じるんだ

結論は

全てはみている人間の主観であるってね

全てがそうなんだ

世界ってそうやってそれぞれの主観を織り成して出来ている

そもそもアセスメントしてみんなでカンファレンスしてケアプランをつくるなんて

僕の本心としては心を閉ざしてしまう連続した出来事のひとつなんだけれども

法令遵守だからやるではあまりにもバカなので、だったら道具や仕組みに工夫をする事で僕たちの主観が育まれるように仕掛けようと思ったんだ

そうやって知らないうちに限りなく客観的(絶対に無理だけど)なものの見方や捉え方が高まるといいなと思ったんだ

だから道具や仕組みは大事だよ

アウルは記録の道具や記録の仕方の仕組みを工夫する事で、必然的に生活をベースに観ることや

一人ひとりに起きている出来事や変化に気づけるようなものにしてるんだ

それを続けていくとどうなると思う?

教育とか研修とかしなくたって自然とものの見方や捉え方が備わるんだ

あとは考え方をいろんな人の出来事を通して勝手に感じてゆくんだ

そう最終的に感じることが大事で感じることを通して感性が高まってゆくんだ

そのことをず〜〜〜〜〜っとやってるんだ

彼らは自分で自分を育んでいるよ

そんでもって欲を言えば、その道具や仕組みも、自分たちで考えて創造することが出来て、使えるようになるとなお良いと思うんだ

なぁそう思わないかい

最近事例検討だとか事例発表だとか流行っているようだけれども

まさしく大勢でいろんな経験のある人たちの考えや心が織りなされるから素敵なんだと思う

ただそこに本人の考えや心がどれだけ在るかが定かじゃないし、そもそも本人がいないところでなんやかんやもなんだかなぁと思うし嫌だなぁと感じる

時には研修と際して先駆者や有名人の話を聞く

どっかの有名人の話を聞くのは、その人の真似をするわけではなくて、自分だったらどうするかなって思考や心を巡らすためなんだ

だから自分たちで出来ることはまだまだたくさんあると思うんだ

仕事ってそういうことなんだと思う

だから諦めずにやってるよ

地道にね^ ^

08:28 | 記事 nao [コメント:0]

『施設長の夜勤経験』

2018年02月19日 | 未分類

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昔、グループホームの取り組みの際の夜勤をしていた頃、夜中に寝巻(浴衣)に腹巻姿でポーチを斜めがけにして起きてくるお婆さんがいました。
僕は「またか」とため息をついていました。
そのお婆さんは、僕を見かけると「仕事行ってくるから」と少し投げやりに言います。僕が「これから仕事ですか?」と改めて問い返すと「はい!」と強めに返事をします。さらに追い討ちをかけるように、「これから仕事って大変ですね」と声をかけると「バスガイドは大変なのよ!朝早くて!」と少し怒ったように答えてくれます。
そうなんです。彼女の仕事は「バスガイド」なんです。毎晩ではありませんが、今思うと多分何か不安な時に、ふとその時に戻るかのように、その時代に存在します。
僕は少し焦ったように「すみません。そう言えば、先程今日バスがストだという連絡が入っていて、伝えるように言われていて、伝えるのを忘れていました。すみません、僕のせいで、遅くなりました。すみません」と、今日運行のバスがストになったことと報告が遅れたことの謝罪を少し大袈裟に繰り返し謝ると「なんで早く言わないのさ!今度からちゃんとして下さいね。わかりました!」と、部屋へ向きを変えて戻って行くのです。また、少し経つと同じようなことが繰り返され、明け方には落ち着き少し横になり朝を迎えることになるのです。
僕に出来たことは、そこに存在して応じることしかありませんでした。
今であれば、日常生活で起きる様々な不安を引き起こす要因や誘引が紡ぎ出す何かを探り、そのことを生活をベースに共に整えていくのと同時に彼女の存在価値が高まるように支えることができますが、その時はその時に起きる彼女たちの世界を知ろう、解ろうとするのが精一杯で、何か専門的な支援などとは程遠く、彼女たちのその瞬間の時代に存在することしか出来ませんでした。
その不安と一緒に居る、そして僕らに出来ることは、朝を迎えた時に「おはよう」と何事もなかったかのように、笑って挨拶をすることしかないようです。
共に不安な一夜を過ごした後のご褒美でしょうか。
人が人と人との間で出来る最高のことだと今も思っています。

07:48 | 記事 nao [コメント:0]

『目指しているもの?』

2018年02月18日 | 未分類

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何かを目指しているのかなぁ

ただこの存在が誰かや何かへの癒しになればいい

そう思ってやってきた

いいのもは自分に取り入れそうでないものは心を閉ざした

たくさんの誰かの考え方ややり方を目指した

それもいいけれども

しかしそれは

本来持つ自分の価値というか在り方というか

そんなものを紡ぎ出すためだった

自分と同じになるわけでもないし

自分と同じにしようなどとも思わない

ただ自分はどうするかしかなかったし、ない

そしてそれは

全ての人との関係で起きる神秘でもある

選択はそれぞれにある

どう選ぶかは自分にしかできないのだ

さぁ僕らはどうするかを選ぶことができるんだ

どうする?

12:49 | 記事 nao [コメント:1]

『施設長の人財育成』

2018年02月17日 | 未分類

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よく質問されることのひとつに『人材育成について』があります。
正直に言うと、自分でもよくわかっていないのではないかと思うのです。なのに、人前でなんだかんだと言っていることに矛盾を感じます。
たぶん正直なところ自分自身では、スタッフを教育しているつもりないからだと思うのです。
もっと掘り下げて正確に言うと、教育したがっている自分とそうでないと主張する自分とが葛藤しているんです。
教育したがる自分はもうどうしようもないんで自問自答の中で自分に対して「へ〜そうなんだ」ってその都度応じてます。
でも、もう一人の自分は、彼らが自分自身で自分を高められるような仕組み(システム)や環境を創ることで、彼らがその気になった時にいつでも自由に学べるようにしておくことが私の仕事だと思っているんです。
基本的に人間は自分を高めたいと思っているし、今よりも良い自分でいたいとか在りたいと思っていると思いますから、自分を高められるような仕組み(システム)や状況を用意することで、ストレスなく学べると思うのです。
それでも教育したがる自分は、スタッフへ期待を持ってしまいます。
何事も思うようにはならないと解っていても、自分の内面に起る「相手への期待」にいつも心が揺れ動きます。
更に内観をすすめますと、その心の内に起る「相手への期待」は、勝手に誰かや何かと比較するようになります。
つまり、相手の成長が私の期待と異なると私の心の中で争いが起りだすのです。
それは形を変え、内なる不安や不満や愚痴になってゆくのです。
結局、自分の心の中に起っているこのやり場のないこれらの感情は、相手に向けられ、悪いのは「私の期待」に応えることのできなかった相手のせいになるのです。
幸いなことに、その内なる声や感情は表には出してはいません。(今日初めてSNSで投稿した^ ^)
もし出てしまうと、「相手への期待」は人間関係をダメにしてしまうと思うのです。
勝手に期待されてしまっているとすれば、たまったものではありません。
ですから、いつでも学べる環境や仕組みを創りだしていればいいのだと思うのです。
そしてその時々でお互いに確認し、その都度未来に向けて話し合ってさえしてゆけば、人は勝手に育ってゆくものとだと思うのです。
55歳を過ぎて少しずつではありますが解ってきたことでしょうか。
ですから『人材育成はどうされていますか?』の質問の応えは
強いて言うならば『いつでも学べる機会と環境を創造し、さらに自分を育もうと、その気にさせること』でしょうか?

11:48 | 記事 nao [コメント:0]

『施設長のつぶやき』

2018年02月16日 | 未分類

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わたしたちの介護という仕事は、人間の「生きる」という本能の部分に働きかけるという普遍性に満ち溢れる仕事です。ですので、一般的にいうエビデンスを超越したところにある仕事なのではないかと思います。例えば、ラーメン屋さんに行って、幾つかのメニューの中からは選ぶとします。私は味噌ラーメンが好きですから、迷わず味噌ラーメンを注文します。もし、味噌ラーメンを選んだその根拠(エビデンス)を問われても、その答えは「好きだから」「食べたかったから」となるでしょう。人間が生きてゆく過程のひとつひとつに、エビデンスを持って説明や証明出来ないところに、私たちの仕事があります。つまり、生きてきた、生きている、生きてゆくそのものがエビデンスだとしたら、私たちの介護という仕事は、その一人ひとりの生き様ひとつひとつの「考え方」に目を向けることが大切になってくると思うのです。その「考え方」を評価してもらえるように、こんな「考え方」で関わることで、今までできなかったことが出来るようになったという姿や、若しくは出来なくなってしまったという姿を、生活の中にたくさん見出だして生かしてゆくことに他ならないと思うのです。本来、私たち介護の仕事は機能の改善ではなく、生活する気持ちの改善に目を向け、そのための支援を考え続けることだと思います。

10:50 | 記事 nao [コメント:1]